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『モリー先生との火曜日』のあらすじ
スポーツコラムニストとして活躍するミッチ・アルボムは、偶然テレビで大学時代の恩師の姿を見かける。モリー先生は、難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)に侵されていた。
16年ぶりの再会。
モリーは幸せそうだった。動かなくなった体で人とふれあうことを楽しんでいる。
「憐れむより、君が抱えている問題を話してくれないか」
モリーは、ミッチに毎週火曜日をくれた。死の床で行われる授業に教科書はない。テーマは「人生の意味」について。
裏表紙より
この本はノンフィクション。
『モリー先生との火曜日』に登場する名言たち
われわれのこの文化は人々に満ち足りた気持ちを与えない。
文化がろくな役に立たないんなら、そんなものいらないと言えるだけの気持ちの強さを持たないといけない。
”われわれのこの文化”とは、テレビ、新聞、インターネット、モノ社会のこと。
大切なことは「自分の文化を持つことだ」とモリーは言う。
散歩やダンス、友人との交際、様々な体験・・・モリーは病気になる前から、「自分の文化」を実践していた。
多くの人が無意味な人生を抱えて歩き回っている。
自分では大事なことのように思ってあれこれ忙しげに立ち働いているけれども、実は半分ねているようなものだ。
まちがったものを追いかけているからそうなる。
人生に意味を与えてくれる道は、人を愛すること、自分の周囲の社会のために尽くすこと、自分に目的と意味を与えてくれるものを創りだすこと。
人生でいちばん大事なことは、愛をどうやって表に出すか、どうやって受け入れるか、その方法を学ぶことだよ。
誰でもいずれ死ぬことはわかっているのに、誰もそれを信じない。
信じているなら、ちがうやり方をするはずだ。
~いずれ死ぬことを認めて、いつ死んでもいいように準備すること。
~そうしてこそ、生きている間、はるかに真剣に人生に取り組むことができる。
いかに死ぬかを学べば、いかに生きるかも学べる。
家族っていうのはそういうものなんだ。
単に愛だけじゃなくて、見守っている人がいますよとわからせてくれること。
~『精神的な保護』とでも言うかな。
そこに家族がいて見守ってくれているっていうことだね。
それを与えてくれるものはほかに何もないんだよ。
かねもだめ、名声もだめ、仕事もだめ。
この国では一種の洗脳が行われている。
洗脳ってどんなふうにやるか知っているだろう?
同じことを何度も何度もくり返して聞かせるんだ。
この国でやっているのはまさにそれだよ。
物を持つのはいいことだ。
かねは多いほうがいい。
財産は多いほうがいい。
商売っ気もそう。
何もかも多い方がいい。多い方がいい。
みんなそれをくり返し口にし―くり返し聞かされ―ついには、めんどうくさくなってほかの考えを持たなくなる。
~この人たちは、愛に飢えているから、ほかのもので間に合わせているんだよ。
物質的なものを抱きしめて、向こうからもそうされたい。
だけど、それはうまくいかない。
物質的なものは愛ややさしさの代わりにはならない、友情の代わりにはならない。
かねはやさしさの代わりにはならない。
権力もそう。
死を目の前に控えてここに座っている私に言えることは、かねや権力をいくら持っていても、そんなものはさがし求めている感情を与えてくれはしないっていうこと。
それをいちばん必要としているときにね。
そしてモリーは次のように続ける「ほんとうに満足を与えてくれるものは、自分が人にあげられるものを提供すること」。具体的には、自分の時間や心遣い。
人間関係に決まった処方はないよ。
愛のあるやり方で調整しなければならない。
~ビジネスの世界では、勝つために交渉する。
ほしいものを獲得するために交渉する。
~愛はちがう。
愛は、自分のことと同じようにほかの人の立場を気にかけるものなんだ。
人生の意味は”愛”
人は誰しも「幸せになりたい」と願っているのに、多くの人は逆に幸福を遠ざける行動をしてしまっている。
そして、それに本人は気付いておらず、不幸に嘆き悲しんでいる。
考えてみれば、とてもおかしな話。
だってそれは、「右に進みたい」と言いながら、自ら左に向かって進んでいるようなものだから。
では、どうしてこのようなおかしな行動を取ってしまっているのだろう。
それはモリーの言うとおり「いまの文化」に騙され、流されているから。
モノも、お金も、名声も、権力も、人を幸福にしない。
けれど「いまの文化」はそれさえ手に入れればバラ色の人生が待っていると私たちに教える。そして人々はそれに騙されている。
モリーは、幸福をもたらしてくれるものは「愛」だという。
他人に自分が持っている時間や思いやりを与えることこそが、自らに幸福をもたらしてくれるのだと。
なのに多くの人は、そういうことにあまり時間を割いていない。
気の滅入るような内容ばかり報道されるテレビの前に何時間も座り、SNSで知っても何にもならないような情報ばかりを大量に得て、流行の波に遅れないようにと最新のファッションや新商品を手に入れる。
でもそれは幸せになれる行動じゃないから、ストレスや疲れだけが残る。
こういった無意味なことに人々を夢中にさせてしまっているのは、先にも挙げたように「いまの文化」が原因なのだけれど、そういうことに騙されてしまうのは「死と真面目に向き合っていないから」なのだ。
みんな「いずれ死ぬ」ということは理解しているけれど、その「いずれ」はまるで永久に先のことのように考えてもいる。
そう考えているから、本質を見抜けず「いまの文化」に騙されてしまう。
もっと真面目に「自分はいつか必ず死ぬ」ということを考えてみよう。
その「いつか」は文字どおり「いつか」であって、それが40年後なのか、10年後なのか、2年後なのか、一週間後なのかは分からない。
けれど、少なくとも「永久にこない」ものではないということ。
「もし自分の寿命があと一年だったら」と想像してみるのもいい。
恐ろしい気持ちになるかもしれないけれど、きっとより良い生き方を選択する手助けになる。
だけどこう想像してみると、多くの人は何か特別なことを思い浮かべるかもしれない。
けれど寝たきりのモリーが「健康に動き回れる時間が24時間あったら何をしたいですか」と尋ねられた時の答えは、「朝起きて、体操して、おいしい朝食を食べて・・・水泳して・・・友達をお昼に呼んで・・・散歩して・・・」と、ごくありきたりの簡単なことだった。
これが何を意味しているのか。
それはおそらく、幸福になるためには、何も特別なことは必要ないということ。
むしろ、こうした平凡な、ありきたりな毎日にこそ幸せが詰まっているのだろう。
この毎日に散りばめられている幸せに気付くには、モリーの言うように、「こんな役に立たない文化はいらない」と言えるだけの勇気を持ち、自分のオリジナルの文化を創りだし、愛に生きることである。
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