もし本当に人生はゲームだったら

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「人生はゲームである」という言葉を、歌詞だったり、映画だったり、本だったりで、見たり聞いたりすることがある。

人生っていうのはゲームみたいに単純で、やり直しが効くものじゃないと思っている人が多いと思う。

けれど、火のない所に煙は立たぬと同じで、もしかしたら本当に人生はゲームみたいに単純で自由で、それを実際に体験している人がいるから、こんな言葉があるとしたら・・・。

そう思って、もし本当に人生はゲームだったらと考えてみた。

それで一番最初に思ったことが、お金について。

ゲームでもお金を貯められるけれど、私はあまりしない。

なぜなら、ゲームでお金をいくら貯めてもそれは、ゲームの中でしか使えないから。

ゲームの世界で億万長者でも、ゲームをやめて現実世界に戻れば、そのお金はまったく意味のないものになるから。

そんな現実世界で通用しないお金に夢中になるのは虚しいことだと私は思うから。

それで「もし本当に人生はゲームだったら」という仮定に戻る。

ゲームでお金を集めることが虚しいのならば、ゲームである人生でお金を集めることも同じように虚しいことになる。

でも実際にこれは多くのスピリチュアル関係の本で言われていることで、死んだらお金は持っていくことはできないという。

ゲームと同じだ。

でもじゃあ、そもそもなんでゲームをするかというと、体験を求めているから。

ゲームを通してでしか体験できない出来事を、求めているから。

それと同じで、死んだらお金や物は持っていけないけれど、経験したことの記憶は持っていけるという説が多い。

だからこそ、死んでも大好きだった人と再会することはできる。

ゲームマネーと装備は現実世界にもっていけない。

お金と物もあの世にはもっていけない。

けれどゲームをしたという体験は現実世界にも残る。

人生で経験した記憶はあの世にももっていける。

これらをまとめると、現実世界でお金に執着することは、ゲームの中でお金をため込むことと同じくらい虚しいことなのではないかと思った。

私は魂の存在を信じる。だからあの世の存在も信じている。

その死後の世界に持っていけないものをいくら集めたところで、どうするというのだろう。

1億円貯めようが100兆円貯めようが、死後の世界に1円も持っていけないのなら、その金額の高さになんの意味があるというのだろう。

それからすると、ゲームと同じように、人生を生きるために必要最低限のお金さえ持っていたらいいということになる。

ものすごくレアな装備で全身かためたい人は、そうすればいいし、ギリギリの装備で手に汗を握りながらラスボス戦に挑んでもいい。

ただ、今までいろんなゲームをしてきて思ったことは、あまりにもレベルにゆとりが出来すぎると、面白くなくなってしまうこと。

ギリギリの装備でどんどん話を進めていって、試行錯誤しながらボス戦に挑む方が面白いということ。

だから、もし現実の人生もゲームと同じだったら、裕福すぎるのはそうでない人の人生より面白くないのかもしれない。

何でもお金で解決しようとするから、頭を使わない。行動しない。

頭を使って行動しなければ、何も経験は積めない。

そして何より達成感がない。

ゲームの世界でお金をいくら貯めても、ゲームをクリアするという結果自体は、貯めなかった人と同じ。

同じなら、大事なのはクリアするまでの過程。

楽しく最後までクリアできたなら、それが一番いい。

そこに貯めたお金の金額は関係ない。

もし本当に人生もゲームだったら、同じはず。

大事なのは、集めたお金の金額ではなく、「何を経験したか」。

結局「人生いろいろあったけど、なんだかんだ楽しかった。生きてよかった」と笑って最期を迎えられる人が一番幸せなんだと思う。

でも実際は、ゲームでお金を集めることが虚しいのに、現実世界では必死になって必要以上にお金に執着している人が多いのではないかと思う。

そしてもっと悲しいのは、お金を集めることに夢中になりすぎて、人生の目的を見失っている人が多いのではないのかということ。

ゲームに例えたら、本当はラスボスを倒さないといけないのに、なんでもない序盤の村周辺でお金稼ぎをしている状態。

お金はうんと貯まっているけれど、ゲームのストーリーは進んでいない状態。

本当はゲームにちゃんとしたストーリーが用意されているのに、ただの「お金集め作業ゲーム」になってしまっている状態。

もし、そんな状態になってしまっている友人を見たら、わたしなら「そろそろストーリーを進めたら?」と言いたくて仕方なくなってしまう。

そしてそれは、多分守護霊様や神様も同じ。

本当は、その人にちゃんとした人生の物語が用意されているのに、お金にばっかり夢中になって人生を生きていなかったら、「もうお金集めはいいよ。そろそろ物語を進めてよ」と守護霊様や神様は言いたくてウズウズしていると思う。

「でもそれは結局のところ分からないでしょ?」

そう言われたら、それで話は終わりなのだけれど、「もし本当に人生はゲームだったら?」と思うと、それだけで終わらせるのはなんだかすごく恐ろしいことのような気がしてしまうのだ。

あとがき(ネタバレ注意)

このことについて考えていると思い出すのは主に3つのゲーム。

一つ目は「ファイナルファンタジー10」、二つ目は「ゼルダの伝説 夢をみる島」、三つめは「ギフトピア」

「ファイナルファンタジー10」は夢の世界の存在だったティーダを中心に、負の輪廻を終わらせるために冒険する召喚士ユウナとその仲間たちの物語。

負の輪廻を終わらせるために、夢を終わらせれば、夢の存在であるティーダ自身も消えてしまう。

それでもティーダは父親を救うため、愛するユウナを犠牲にしないで済むようにするため、夢の創造の源であるエボン=ジュを破壊する。

すると負の輪廻は終わったが、夢であったティーダの身体も透けていき消えてしまった。

そして永遠のナギ節になったスピラの世界で民衆に向かってユウナは旅の記憶を思い出しながら言う。「ひとつだけお願いがあります。いなくなってしまった人たちのこと、時々でいいから・・・・・・思い出してください」

夢だったザナルカンドとその住人だったティーダたちは消えた。けれど、彼と冒険した記憶は残った。それはユウナの心にも、それをプレイした私の心にも。

「ゼルダの伝説 夢をみる島」もFF10とストーリー自体はとても似ている。

夢をみる島の舞台であるコホリント島は実際の島ではなく、「かぜのさかな」が見ている夢の世界なのだ。

リンクは「かぜのさかな」を目覚めさせるために、冒険をするが、それは夢の存在であるコホリント島を消してしまうことでもあった。

夢の島であるコホリント島に巣食う、悪夢「シャドー」を倒すと「かぜのさかな」は言う。

”「~だが、ユメは覚めるもの それが、自然のさだめなのだ。わたしが、目覚めると、コホリント島は消えるだろう。しかし、この島の思い出は現実として、心に残る。そして・・・キミはいつかこの島を思い出すだろう。この思い出こそ、本当のユメの世界では、ないだろうか~」”

そして、かぜのさかなの目覚めと共に、夢の世界であったコホリント島が消滅してゆく。モンスターも、村も、村人も、大好きだったマリンも・・・。

私は「夢をみる島」というタイトルだったのに、まさかコホリント島自体が夢の存在だとは終盤ごろまで気づかなかったので、終盤はなんだか切なくて切なくてゲームを進めるのが少し悲しかった。

そして「かぜのさかな」がいよいよ目覚めてしまうという悲しみのピークのなか、同時にこの「かぜのさかな」の言葉にも救われた。

またウルリラじいさんに会いたいなぁ。

「ギフトピア」はちょっと変わったゲームで、簡単にいうと、村人たちの願い事を叶えていくというゲーム。

面白いのは、このゲームはマルチエンディングになっていて、お金で解決しようとすると必ずバッドエンドになるところ。

主人公のポックルは大人になるために、村人の願い事を叶えてきながら、様々なことを経験していくが、この経験をすっぽかしてお金を使って「大人」になることも可能(笑)

でも、そうすると必ずバッドエンドになる。

「大人になる」とはどういうことなのか、ポックルを通して考えさせられるゲーム。

ある条件を満たすことで会話ができる「ゴシンボク」の言葉も必見。

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