わらびです。
皆さんは自由は好きですか。
そりゃそうでしょ。不自由なのは不幸に決まっている。自由こそ幸せの第一条件だ。
こんな風に、私たちの生きる現代社会には「自由であればあるほど望ましい」という認識が広く浸透しています。
けれど実は、この私たちが求めている「自由」が、私たちを「不幸」にしているとしたら・・・?
このことについて心理学者のバリー・シュワルツ氏による面白いTEDの講演があったので紹介します。
自由=選択肢が多いということ
自由というのは、選択肢が多いことを意味します。
現代社会は昔と比べて莫大な選択肢で溢れています。
スーパーに行っても、家電量販店に行っても、大抵の欲しいものは手に入れられるようになっています。
パスタソースを買おうとすれば、いろいろなソースの中から選べます。携帯電話を買う時も同じです。
選択肢が多いからこそ、いろいろな物と比較して決めることができるのに、この選択肢の多さが逆に私たちを不幸にしているって一体どういうことなのでしょう。
この疑問についてバリー・シュワルツ氏は2つの理由を挙げています。
選択肢の多さが無力感を与える
選択肢が多いことの一つ目のデメリットは「選択肢が多いことにより無力感を抱くこと」です。
あまりにも選択肢が多くなると、人は選択するのが難しくなってしまいます。
選択するのが難しくなると、決定するのが億劫になので、「また明日決めよう。」「そのまた明日。」「一週間後に」と、どんどん決定する日を先延ばしにし、ついには決定せずにチャンスを逃してしまうことが増えてしまうのです。
選択しても満足度が低くなる
二つ目のデメリットは「仮に選択したとしても、他の選択肢を選んだ場合と比較してしまい、高い満足感を得られないこと」です。
とにかく私たちの周りにはたくさんの選択肢で溢れていますから、なんとか思い切って決断しても「もし他の選択肢を選んでいたら」と想像してしまいます。
すると想像なのであたかもその選ばなかった選択肢を選んでいた方が良かったような気がしてきます。
これを機会費用といいます。
この機会費用が私たちが選んだ選択肢の満足度から常に引かれるので、せっかく決断してもあまり満足できないという結果を生んでしまうのです。
レストランに行って、豊富なメニューの中からやっと選び出し、お目当ての料理を食べることができたのに、妙に他の人が食べている料理が気になる・・・。あっちを選んでおけば良かった。
こんな風に思ったことはありませんか?
実際は最高の選択を選んでいたとしても、この機会費用によって100%満足することはできないのです。
そして、選択肢の多さが、さらに期待を高めてしまいます。
例えば、ジーンズを購入するためにお店に行けば、たくさんの種類のジーンズがあります。
そのたくさんの種類のジーンズの中から、自分にピッタリのジーンズを見つけ出せたとします。
けれど私たちの心の中では、「もっと素晴らしいジーンズがあるはずだ」と、さらなる理想のジーンズ象を浮かべてしまい、実はそれがベストなジーンズにもかかわらず、「もっと良いジーンズがどこかにはあるはず」と思い込んでしまっているので、完全に喜ぶことができないという具合です。
もっと言えば、もともと1つのジーンズしか選べなかった場合の方が、満足度は高いかもしれないということです。
何故なら、期待していないので。
1つのジーンズしか選べなかったら、満足できなくてもそれは世の中のせいにできます。
けれど、たくさんのジーンズがある世の中では、満足できなければ、世の中ではなく自分を責めることになります。
ならば満足のいくジーンズを選びたいところですが、選択肢の多さによって、他のジーンズが良く見えてしまったり、さらなる理想のジーンズを想像してしまうので、絶対満足はできないのです。
バリー・シュワルツ氏はここ数十年でうつ病が爆発的に増えた理由は、選択肢の多さによって、高い満足度を得られなくなっているのが一つの原因だと主張しています。
「もっと満足できるはずだ。あまり満足できなかったのは自分の選択が悪かったせいなんだ。」と自分を責め続けることで、客観的にはいい結果になっているのに、本人の気持ちは最悪になってしまっているのです。
選択肢の多すぎる国から少なすぎる国へ
西欧社会はこの選択肢が多すぎることで、幸福感を得られにくいという問題を抱えていますが、世の中には逆に選択肢が少なすぎることが問題になっている国が未だ数多くあります。
西欧社会の選択肢を与えているものとは「物質的な豊さ」です。
この過剰に溢れてしまっている物質的な豊かさを、そうではない国に再分配することで、選択肢の少なすぎる国の人たちの生活が向上するだけでなく、選択肢が多すぎる国の人たちの生活も向上すると、バリー・シュワルツ氏は主張し、この講演は終わります。
幸せになりたいなら低い期待を持とう
「でも、選択肢の多さは自分たちではどうしようもないでしょ?こんな世の中でどうすれば私たちは幸せになれるというの?」
ここまで読んで、そう気になった方も多いのではないでしょうか。
このことについてバリー・シュワルツ氏は「あまり期待しないこと」と答えています。
高い期待が私たちがせっかく選んだいい選択の結果から満足度を引いてしまうのです。
そしてこの高い期待というのも、私たちが想像で生み出しているものなので、それが本当に素晴らしいものなのかは分かりません。
AとBという選択があったとして、Aがこの世で最高の選択、Bがこの世で一番避けるべき選択だったとします。
そしてあなたはAを選びました。正解の選択をしたということです。
けれどあなたは、「もしBを選んでいたらもっと幸せだったのかな?」と思ってしまうのです。
こんなことを、日ごろ私たちは無意識のうちに考えてしまっているということです。
ちょっと滑稽ですよね。
だからこれをやめて「Bを選んでも大して変わらなかったに違いない」と思うようにする。
どっちにしろ、私たちにはどの選択肢が一番良い選択肢なのかは分かることはできないので、「自分が選んだ選択がベストだった。他の選択肢も気になるけれど、その選択肢は選んだ選択肢より悪い結果を生むか、せいぜい同じ結果を生むに過ぎなかっただろう。」と決めつけてしまった方が、満足感は得られるでしょう。
まとめ
バリー・シュワルツ氏は「自由であればあるだけ良い」という現代社会に広く浸透している認識に、疑問を抱き全く逆の答えを導き出したわけですが、私自身も「自由=幸福」の定義には少し懐疑的でした。
勿論、全く自由がないよりは、自由である方が良いとは思いますが、「自由であれば必ず幸せになれる」というのはどうなのだろうか?ということです。
「自由」で思いつくのが、最近のゲームです。
最近のゲームはオープンワールドだったり、選択によってエンディングが変わるマルチエンディング仕様だったり、選択肢がとても多く、自由度が高いです。
私は最初この手のゲームが出だした時は「すごい!なんでも出来るぞ!」と興奮したのですが、実際やってみると、あまりに出来ることが多すぎるせいで、逆にやる気が起きないのです。
キャラメイクを1時間かけて作っても、やっぱりあの髪型にしておけば良かったかな?と思ってしまったり、膨大な武器の組み合わせを前に呆然としてしまったり、何か選択を求められれば別のセーブファイルを作成して、もう一つの選択肢を選んだ場合を確認してしまったり。
昔のゲームはこんなことありませんでした。
キャラクターの見た目もせいぜい性別を選べるだけだし、エンディングは1つだったし、私たちはゲーム制作者が決めたシナリオを歩むだけでした。
自由度は低いですが、そのおかげで悩むこともありませんし、他の選択が正解だったのかなと不安になったり、後悔することもありません。
勿論自由度の高いゲームでも面白いゲームはあります。
けれど、いろいろやってみて私の場合は「好きだな~」と思うゲームは昔のあまり選べないゲームの方が多いです。
シンプルな方がやる気が起きます。
これがバリー・シュワルツ氏が言っていた「選択肢の多さが無力感を与える」ということなのでしょう。
同じゲームの話になりますが、「もし他の選択肢を選んでいれば・・・」をテーマにしたゲームとして「ライフイズストレンジ」があります。
主人公の時間を巻き戻す能力を使って、なるべく理想の選択を選んでいくという内容です。
時間は何回でも巻き戻せるので、どっちの選択肢が良い選択なのか分かることができます。うらやましい能力ですよね。
けれどこのゲームをクリアして私が感じたことは、「時間は巻き戻せない方がいい」ということでした。
何故かというと、結局時間を巻き戻してAの選択肢、Bの選択肢の結果を見ても、どちらを選ぶといいのか迷うことの方が多いからです。
その時は良い選択に見えても、その選択に先々苦しめられることがあります。
結果、毎回判断に悩み、満足感は得られないのです。
まさにバリー・シュワルツ氏が言っていた状態と同じです。
時間は巻き戻せない方が、どっちの選択肢が良いか比較しようがないので、割り切ることができます。
さらに言えば「この選択肢がベストだった」と自分で決めてしまってもいいのです。
そんな選択のパラドックスについて考えさせられるゲーム「ライフイズストレンジ」。
気になった方は是非やってみてください。
それでは~。
「The paradox of choice : 選択のパラドックスについて―バリー・シュワルツ」クリックするとYouTubeで視聴できます。