こんにちは、わらびです。
今回は超訳日月神示シリーズをやめることについてお話します。
超訳日月神示をはじめた理由
まず最初に私が日月神示をできるだけ分かりやすくまとめ直すという、「超訳日月神示」を始めようと思った理由は、私自身が日月神示に大きな感銘を受けたからです。
日月神示に出会ったのは本当に偶然の出来事でしたが、その内容の面白さに惹かれ、それなりにある文章量にもかかわらず一気に読み終えました。
日月神示は自動書記で書かれたという背景通り、とても人間が無から創り出した内容とは思えませんでした。これは今でもその思いです。
なぜなら、日月神示には他の多くの宗教にありがちな、お金を納めさせようとさせる概念や、法律や警察、政治、さらには税金の否定など、この教えで一儲けしようという人間のような考えが一切記載されておらず、この教えを広めることで権力や金銭的な利益を得られる要素がないからです。
だから、日月神示は既存の宗教団体のように、【ビジネス】にはならないのです。(日月神示にも「この教えを金儲けのためにつかってくれるな」と記載されています)
中には、「日月神示は偽書である」「自動書記なんてあり得ない」と言う人たちもいますが、もし本当に「偽書」であり、岡本天明が自動書記によってではなく、自らの思いつきで書いたというなら、いったい何のために、このような【ビジネス】にならない教えを書き記したのでしょうか。
自動書記ではなく、人間の思いつきで生まれた教えなら、もう少しお金儲け的な要素があってもおかしくないと思います。
しかし日月神示には、そういった要素が一切含まれていないのです。
仏教やキリスト教にあるような「罪を犯した人間は地獄に落ちる」というような、人間を24時間365日縛りつけるような脅し文句もありません。日月神示は地獄の存在を否定しています。
そういう意味で、日月神示は人間の我欲を超えた教えだと考えることができます。だから私は日月神示は本当に自動書記によって書かれた教えだと思っているのです。
それに、自動書記が真実かどうか、などは本当はどうでもよいことであって、例え日月神示が岡本天明によって自作自演で書かれた書であったとしても、その内容は素晴らしいものであることは変わりません。
だから、この偽書か否かの議論については無意味だとも思っています。
日月神示に書かれている内容は、それを読んだ人に害を与えるものではありません。むしろ初めから終わりまで、真にその教えを信じ、実行することができたら全て益になるようなことしか書かれていません。
そんな日月神示を面白いと思った私は、特に印象に残った箇所についてまとめ記事を書きました。
[日月神示に相談しよう:人を裁くこと][日月神示に相談しよう:政治が上手くいかない理由]
大きな箇所については全て書き終えましたが、それは日月神示のほんの数パーセントを紹介しただけにすぎません。
また、日月神示のレビュー欄を読むと「内容が難しくて読むのを断念した」「さっぱり内容がはいってこない」などというコメントを多々拝見し、それは仕方のないことだと最初は思っていました。
けれど、こんなに素晴らしい内容を難しいからという理由で読むのを諦める人たちがいるのは、やはり悲しいことであり、もったいないと思い、それならば難しいと思われる文体を現代文に分かりやすく書き換えたら、そういう人たちも最後まで読めるのではないか?と思い、日月神示の超訳をはじめることにしたのです。
超訳日月神示は人のためにならない
しかし、ここからが本題なのですが、ある日超訳記事を書きながら、私は逆に人のためにならない、そればかりでなく有害なことをやっているのではないかと考え始めたのです。
日月神示の内容は素晴らしいと書きましたが、それは、日月神示に書かれていることは聞いていて心地のよい内容ばかりであることを意味していません。
日月神示には、人口が1/3に減ることや、天変地異、日本がほぼ壊滅しかかる、食糧危機など、一般的に恐ろしいことと考えられることが多々記載されています。
その内容はまさに聖書のヨハネの黙示録のようです。
その記載されている内容の恐ろしさから、キリスト教を信仰する人でもヨハネの黙示録は読みたくないという人も少なくないようですが、日月神示にもこれと似た要素が含まれているのです。それは既に公開済みの超訳記事を読んでいただければ、お気づきかと思います。
[超訳 日月神示2 「早く気づいて!悪の計画と泥の海!!」第一巻 上つ巻 第二帖]
[超訳 日月神示9「ちょっと怖いお告げ」第一巻 上つ巻 第九帖]
しかし、日月神示は人を恐怖に陥れるために書かれたものではありません。
それに本当に日月神示を最初から最後まで自分の力で読み進め、その内容が本当に理解できたら、これらの一般的に恐ろしいとされている内容は、恐ろしいものでなくなるのです。
何故なら、日月神示は一般的な災いの預言をしつつも、「災いと見えても実は災いでない」や「信じる人は神は見捨てない」や「善悪の本当の意味(一枚の葉にすら表裏~)」など、簡単に言えば、「一見すると恐いことが起きるけど、全然心配しなくても大丈夫だよ」と一貫して伝えられているからです。
だから、私は日月神示に書かれている”災い”を読んでも、心がザワついて、心配になったり、恐怖心をおぼえることはありません。それは日月神示の教えを信じているからです。
天変地異や、戦争、食糧危機について、私は政治家でも権力者でもないのでどうしようもできません。
けれど日月神示に口を酸っぱくして書かれている「身魂磨き」は実践することができます。
そして日月神示は、「身魂磨きこそが全ての鍵。それさえしておけば大丈夫」と教えています。
それが日月神示を読んでも恐くならない理由です。
けれど、恐らく多くの人は、本当に自動書記されたのかどうかも証明されていない”謎の”日月神示に書かれている内容をここまで信じられないと思うのです。
何故なら日月神示に書かれていることは科学的ではないからです。
「身魂磨きをしていれば救われるよ」なんて書かれていても、それは非科学的であり、神様の存在を信じていない人にとっては滑稽にしか思われないでしょう。
また、神様を信じていても、中途半端な信仰心では、やはり日月神示の内容を本当には信じることはできないでしょう。
いや、信じる信じないは別にどうでもよいことなのです。面白いから読む、それだけでもいいのです。(それこそ小説のように)
ただ、神様の存在や、見えない世界のことを信じなければ、日月神示はまるで恐怖の連続のようなサスペンス映画に見えてしまうのです。
それだと本当にただ恐ろしいだけなので、精神的によくありません。
日月神示を読んでも恐ろしさだけが目にとまり、心がザワつき落ち着きをなくしてしまうようではむしろ逆効果です。
そんな精神状態が毎日続けば、あらゆることに怯え、懐疑的・否定的になり、ストレスがたまり、短気になったり、陰鬱になったりして、いずれ精神や肉体の病気になってしまいます。
それに、そんな恐怖心でいっぱいの人が日本に増えたら、それこそ日本のためにはなりません。これについては日月神示でも「すべては氣が元だぞ。氣をしっかりもってくれ」「爆弾でも落ちると思えば落ちるんだぞ」と書かれています。
心がザワつくうちは恐らく読むべきではない
ここで本題に戻りますが、神様の存在や、見えない世界のことを信じていないという、いわゆる信仰心のない人(別にそれが悪いことだと言うつもりはありません)に、いくら内容が素晴らしいと思っているからといって、読みやすいようにまとめ記事を作成することは、日月神示に”一般的に”恐ろしいとされている内容が少なからず含まれていることによって、読んだ人をいたずらに不安にさせ、結果としてその人のためにならないばかりか、有害になってしまうのではと考えるに至ったのです。
実際、それを裏付けるかのように?日月神示には「無理に人を引っ張ってくれるなよ」と書いてあります。
もちろん「この教えが良いと思ったら人にも知らせてやれよ」とも書かれており、それも理由の一つとなって、まとめ解説記事を書いていたのですが、果たして自分のやっていることは「無理に引っ張っている」のではないか?と考えるようになったのです。
哲学者ヒルティも「信仰心は教えることはできない」と言っていますが、この考えに私も同感です。
人それぞれに信ずる信条・思想があり、たとえ同じ信条・思想だとしても、それぞれ段階があります。
以前読んだ時は、まったく何も心に響かなかったのに、5年後に読んだら刺さる言葉の連続~のような本があったりするように、日月神示も人によって出会うべきベストなタイミングが異なると思うのです。もしかしたら、そのタイミングは永遠に訪れないかもしれません。もしそうでも、それはそうであることがその人に合っているからです。
わたしは日月神示を読み始めた時から、”災い”について書かれている箇所を読んでも不思議と恐さを感じませんでした。だから心をザワつかせることなく、ただ面白いという理由で一気に読み終えることができたのです。読んでいて苦しいと思ったり気分が鬱々とすることはありませんでした。
日月神示に「この書は縁ある人間を呼び寄せる」と書いてありますが、私と日月神示の出会いが本当に偶然であったように、もしかしたら縁があったのかもしれません。
日月神示は無理して読むものではありません。読んでいて嫌な気分になったり、つらくなったりしたら読むのをやめた方がいいと思います。
直感に従って生きていれば、その時自分に読むべきものが分かります。すんなり読めてしまう本、難しいけれど何故か夢中になってしまう本が、そんな本です。
ただ、日月神示には一般的に恐ろしいとされていることが書かれているけれど、真の意味では恐ろしくないこと、それ以上に素晴らしいことが書かれていること、それを書き記してこの記事を終わります。