『エデンの東』は、「何が正しいのか」そして「愛とは何なのか」を考えさせてくれる映画である。今回は、そんな映画『エデンの東』から良い人生を生きる方法について考えていきたい。
『エデンの東』のあらすじ
【母を探しに】
トラスク家の次男ケイレブ(愛称キャル)は、父アダムから死んだと聞かされていた母ケートの行方を秘かに探っていた。
そして、ついにキャルは実の母ケートが本当は生きており、さらにいかがわしい酒場を経営していることを突き止めた。
【失敗したレタス冷蔵事業と借金】
その頃、アダムはレタスの冷蔵保存事業を成功させることに懸命だった。
しかし、アダムのレタスを運んでいた列車が雪崩により立ち往生し、アダムは多額の損害を被ってしまった。
父のレタス冷蔵保存事業を陰で暖かく見守っていたキャルは、父の損失を取り戻すため、アメリカが第一次世界大戦に参戦すれば豆の価格が高騰するというウィルの話を信じ、豆の栽培を行うことに決めた。
その際、資金が必要となるため、キャルは母ケートの元を訪れ借金を申し込む。
キャルに自分と似たところがあると感じ、好感を抱いていたケートはキャルの申し出を受け入れた。
【受け取ってもらえなかったプレゼント】
その後、ウィルの予想通り、アメリカは第一次世界大戦に参戦し、豆が高騰した。
キャルが母ケートから借りた資金で栽培していた豆も順調に育っており、父のレタス冷蔵事業により被った損失も取り戻せそうだった。
豆栽培で父の損失分を稼いだキャルは兄アーロンの恋人アブラと父の誕生日パーティーを計画する。
誕生日パーティーの時、キャルは父に損失分全額のお金をプレゼントとして渡すが、アダムはアブラとの婚約を発表した兄アーロンのことばかりを褒め、キャルからのプレゼントであるお金を受け取ろうとしない。
その頃アダムは徴兵委員として務めており、精神的にも参っていたため、戦争で稼いだお金など、”善良”なアダムには受け取れないのだった。
【明らかになった真実、そして和解】
プレゼントの受け取りを拒否されたキャルは自暴自棄になり、家を出ていくことを決意。
さらに、兄のアーロンからも冷たくされ、その報復にキャルはアーロンを母ケートの元に連れて行き、アーロンが抱いていた母への想像を打ち砕いた。
想像とはあまりにも違い過ぎた母の現実にショックを受けたアーロンは頭がおかしくなり、反対していた戦争に自ら志願して列車に乗ってしまう。
変わってしまったアーロンを見てアダムはショックによって、脳出血で倒れ、身体が麻痺しベッドから動けない状態になってしまう。
キャルとアダムの関係がこのままで終わってしまうことは、二人にとってよくないと考えたアブラは、アダムに「キャルへの愛を示して欲しい」と訴え、キャルにも話し合うよう説得。
キャルが以前アダムから説教されたときの内容を覚えていることを話すと、アダムは意地悪な看護師を追い払って、代わりにキャルに自分の世話をして欲しいと頼み、ついに二人は和解することができたのだった。
何が正しくて、何が悪いのか
キャルの父アダムはキリスト教の根っからの信者で、聖書に何よりも重きを置いている。
保安官からも「彼ほどの善人は他に見たことがない」と言われるほどの善人さ。
けれど、そんなに”善人”ならどうして妻が子供達を捨て家から出て行ってしまったのだろう。
妻が”悪い人”だからだろうか。
実際キャルの実の母であるケートは、子供を捨て家を出て行ったというのに、いかがわしい酒場を経営し大繁盛していた。
これだけ聞くと、やっぱり母が悪そうだ。
けれどそれは上辺だけで判断しているに過ぎない。
実際は、アダムがケートに聖書の教えを押し付け過ぎていたことが問題だったのだ。
ケートはもともと自由を愛する女性。
それなのにアダムはケートを行動から思想から、自分が理想とするものに縛り付けようとし、ケートに愛を示さなかった。
それが原因で、ケートは家を出て行ったのだ。
ケートは悪人ではない。
もし悪人だったなら、キャルが多額の借金を申し込んで来た時も承諾しなかったはずだ。
何故ならキャルはケートが憎むアダムのために、借金を申し込んで来ていたのだから。(これにはケート本人も「皮肉な話よね」とコメントしていた)
そうして単身で借金をして損失分を稼いだキャルのお金を、アダムは「戦争で稼いだお金など」と言って受け取らなかった。
確かに、戦争は多くの人が犠牲になる。そんな戦争を逆に利用してお金を稼ぐというのは、あまり気持ちの良いものではない。
けれどそれは、ある意味”理屈”の話だ。
キャルには、そんな悪気はなかった。
そこにあったのは、ただ「父さんの損失を取り返してあげたい」という父への愛だけだったのだ。
「戦争で稼いだ金など受け取れない」それはけっこうな意見だ。”善”に満ち溢れた考えだと思う。
けれど、だからといって息子の愛を踏みにじってもいいのだろうか。そして、それが本当に”善人”と言えるのだろうか。
キャルが行った行為は、”悪い”ことなのだろうか。
私はそうは思わない。
それは愛なのか、エゴなのか
兄アーロンも父アダムの性格をそのまま受け継いだかのような”善人”であるが、恋人のアブラを心からは愛していなかった。
アーロンもアダムがケートにしたように、自分の理想とする恋人像をアブラに押し付け、アブラ本人を愛そうとしていなかったのだ。
アダムやアーロン程ではなくても、誰しも自分の中に理想的な人物像を持っていると思う。
そして私たちはそれを、自分の身近な人、例えば恋人や、家族や、友人に押し付けてしまいがちである。
人はよく「君を愛しているからこそ、こう言うんだよ」と言うが、それは実は愛からではなく、エゴからの言葉になっていないだろうか。
本当に愛しているのなら、そのままの相手を、そのまま受け入れ、欠点すらも愛することができるはず。
許すことと、愛することは違う
「許す」ことは大事なことだ。
特に誰かから危害を加えられた時、その加害者である相手を許すことは大きな意味を持つ。
けれども許すことは、上の立場の者が下の立場の者に与える行為のようなニュアンスがある。
被害者から加害者へ。上司から部下へ。神から人へ。
好きな人の欠点を許すことは、好きな人の欠点を愛することと違う。
「愛する」ということは、上下関係がなく、もっと積極的なものだ。
自分から歩み寄ろう、理解しよう、受け入れようという気持ちが伝わってくる。
それが「許す」には感じられない。
映画の中でもケートは「あの人(アダム)はいつも私を許してばかりで、私を愛してくれてはいなかった」と言っていた。
ただ愛するだけでは駄目
愛することは大切なことだが、ただ「愛して」も駄目である。
「愛している」ということが相手に伝わらなければいけない。
アダムのケートやキャルに対して厳しすぎる姿勢は、もしかしたら彼なりの愛だったのかもしれない。
けれど、もし愛だったとしてもそれは二人に伝わっておらず、むしろ逆効果だった。
こんな風に、相手に伝わらない愛は、たとえ本人にとっては愛しているつもりでも、相手にとっては愛されていないことと同じになり得る。
愛は相手に伝わってこそのものである。
正しさよりも、愛を求めよう
”正しさ”をあまりにも求めすぎると、その反対に位置する”悪”をものすごく憎むようになる。
けれど、「何が正しくて何が悪いのか」なんて、人が違えば、立場が違えば答えはいくらでもあるように、この世に絶対的な正しさは存在しない。
だからこそ、私たちは正しさよりももっと「愛」を求めるべきである。
「自分が正しい」と思い込めば思い込むほど、まわりの人の正しくない部分に気付いてしまう。
そうすると、自分以外の周りの人間は、なんだかダメな人ばかりのように見えてくる。
そう見えてくると、無意識に自分が優れている(善良な)人間のような気がして、「愛する」ということができにくくなり、「許す」ことしかできなくなる。
偏り過ぎた”善”にとらわれたアダムが、キャルの愛に気付けず、逆にその愛を踏みにじってしまったように、”正しさ”だけにとらわれると愛を見失ってしまう。
自分に向けられた愛に気付けないことは、自分にとっても相手にとっても不幸なこと。
だからこそ、自分のために、相手のために、もっと「愛」という基準を持ちたいものである。