世界中の国で読まれている名作『星の王子さま』。私の大好きな本の一つです。何度も読み直すにつれ、いろんなことを考えさせられたので、今回は『星の王子さま』を読んで私が考えたことをみなさんに紹介したいと思います。
以下ネタバレを含みます。斜線青字部分は引用です。
目次
おとなたちには、いつだって説明がいる
物語は大蛇ボアの絵で始まる。
見たことのない人は是非本を買って挿絵を見て欲しいのだが、画像検索をしても見ることができる。
著作権の関係上、このブログにその挿絵を載せることはできないが大蛇がゾウを丸呑みしている絵である。
これを子供だった頃の主人公の僕がおとなに「この絵こわい?」と聞くと、いつも決まって「どうして帽子がこわいの?」と返されるのだった。
これについて僕は”おとなたちには、いつだって説明がいる”と述べる。
その為に、ボアの中身が見える絵を描いておとなたちに見せても「そんな絵はいいから」と僕に地理や算数の勉強をするように諭すのだ。
そして僕は画家になることをあきらめてしまう。
おとなには価値があるものしか理解できない。
地理や算数は価値あるものだが、ゾウを丸呑みするボアはどうでもいいもので、価値のないものである。
さらに僕はこう続ける。
”おとなは数字が好きだから。新しい友だちのことを話しても、おとなは、いちばんたいせつなことはなにも聞かない。”
その子の声がどんな風だとか、その子の趣味のことは聞かずに、大人はその子の年齢、体重、何人兄弟なのか、その子の父親の収入のことを尋ねる。
そしてそれを聞いて、その子のことが分かったような気になる。
大人の価値基準はいつだって数字である。
テストの点数、偏差値、収入、資産、あまりに多くの価値を数字で決めてきたせいで、数字に頼らないとそれがどんなものなのか想像できなくなってしまっているのだ。
しかし、子供はそうではない。
こどもはそんな数字に頼らなくても、それがどんなものなのか想像することができる。
数字でなく自分の中に価値基準があるから、おとなのようにあれこれ質問せずともそのものをありのままの形で知ることができる。
”大事なこと”で忙しいおとなたち
砂漠に不時着した飛行士の主人公の僕は、壊れた飛行機を直そうと必死になっていて”大事なことで忙しい!”と王子様に言ってしまう。
すると王子様は”大事なこと!おとなみたいな言い方だ!”と言い次のように続ける。
”きみはごちゃ混ぜにしてる・・・・・・大事なこともそうでないことも、いっしょくたにしてる!”
”おじさんは、一度も花の香りをかいだことがなかった。星も見たこともなかった。誰も愛したことがなかった。たし算意以外はなにもしたことがなかった。一日じゅう、きみみたいに繰り返してた。「大事なことで忙しい!私は有能な人間だから!」そうしてふんぞり返ってた。でもそんなのは人間じゃない。キノコだ!”
子供から大人に近づくにつれて「忙しい。忙しい。」と繰り返し呟く人が増えていった。
しかも、言っている本人もそんな「忙しさに追われている自分」に自惚れている感じで。
でも、大抵その人の日常を見てみると「別にする必要のないこと」を一生懸命かき集めて、自分で自分を勝手に忙しくしていることがほとんど。
その人たちの生活を見たわけじゃないから、はっきりとは言いにくいが、この「大事なことで忙しい」人たちは、別に「大事なこと」ではないことに追われ「本当に大事なこと」例えば、家族との会話や触れあいをおろそかにしているのではないだろうか。
ちょうど、子供が学校から帰ってきて、帰り道で初めてつかまえたセミのことをお母さんに教えようと話しかけてきたのを「お母さんは家事で忙しいからその話は後にしてくれる?宿題をしなさい」と言うように。
小さい頃は「忙しく」なんてなかった。
宿題もあったし、帰宅時には突然追いかけっこが始まったり、セミを取りに出かけたり、缶蹴りして遊んだり、雨の日はわざと傘をささずにはしゃぎあったり、体がヘトヘトになるまでいろんなことをしていたけど「忙しく」はなかった。
それが大人になるにつれ、帰宅時に走って帰ることもなくなったし、セミ取りにもでかけなくなり、雨だからとか、何かと理由をつけて家から出なくなったのに、それなのにどうして「忙しく」なったのだろう。
多分、「本当に大事なこと」で人生がいっぱいのときには「忙しさ」は感じないが、「大事なことでないこと」を「大事なこと」と勘違いしてそれに追われているときには、「忙しさ」っていうものを感じるのかもしれない。
言葉ではなく、してくれたことで相手を見るべき
バラのいじわるに我慢できなくなった星の王子様が、バラを星において旅立つ場面。
実はバラは王子様のことを愛していたがゆえに王子様を困らせたりしていたのだ。
そのことに最後まで気づかなかった王子様は深い後悔の念を抱く。
その時のバラのセリフ、
”わたし、ばかだった。
ごめんなさい。幸せになってね。
そうよ、わたし、あなたを愛してる。知らなかったでしょう、あなた。
わたしのせいね。
どうでもいいけど。
でも、あなたもわたしと同じぐらい、ばかだった。
幸せになってね・・・・・・そのおおいは置いといて。もう、いいの。”
これに対して王子様はこう述べる、
”ぼくはあのころ、なんにもわかっていなかった!ことばじゃなくて、してくれたことで、あの花を見るべきだった。
あれこれ言うかげには愛情があったことを、見抜くべきだった。”
王子様の気をひこうと、あ~して、こ~して、と言っていたことが裏目に出てしまったバラは自身のことを「ばかだった」と言う。
しかし、そのことに気付かなかった王子様もバラと同じくらいばかだった。
ばかなもの同士の間に訪れた、とても子供向けの作品とは思えないあまりに悲しい別れである。
全てのタイプの人が存在する地球
バラとの別れの後、王子様はいろんな星を旅することになる。
王様が住んでいる星、大物気取りがいる星、酒浸りの男がいる星、実業家が住んでいる星、点灯人がいる星、地理学者がいる星。
王様は権力にしがみつきすぎだし、大物気取りは自分が称賛されることにしか興味がない。
酒浸りの男は「恥じることを忘れるため」に飲んでいるのに、「飲むことを恥じていている」という矛盾っぷり。
実業家はお金にしか目がないが、手に入れることばかりで「その物」の役に立っていない(持ち主としての役目を果たしていない)。
点灯人については、指示どおりガス灯をつけたり、消したりしているだけなのだが、「自分以外のことに一生懸命にやっている」点で王子様は尊敬の念を抱く。
地理学者は「儚いもの」には興味がない。王子様が大切だった一輪のバラなど地理学者にとってはあってもなくても、どうでもいいものだった。
そして、7番目に王子様がやってきた星、それが地球である。
この地球は王子様が今まで出会ってきた全てのタイプの人間たちが住んでいる星だ。
人間たちのいる場所でも寂しい
王子様は人間のいない砂漠を見て「寂しい場所だ」と言うが”人間たちのいる場所でも寂しいさ”とヘビは言う。
孤独は他人がいて初めて成り立つものだ。
しかも、人間の絶対数が増えれば増えるほど孤独感は増していく。
案外、誰もいない公園で一人の時間を過ごすことは容易だが、これがたくさんの人で溢れかえる公園になると孤独にさいなまれ我慢できなくなる。
誰もいない砂漠より、都会の雑踏の中にいる方が寂しいなんてとんだ矛盾である。
絆を結んだものには、永遠に責任を持つ
しばらく砂漠を歩いていると王子様はバラの花園を発見する。
自分の星にしか存在しない貴重な花だと思っていたのに、まったく同じバラが何千もあるものだということを知って王子様は愕然とする。
そして、この物語で重要な鍵を握るキツネの登場である。
王子様はキツネと「遊ぼう」と誘うが、「まだなついていないから」とキツネは王子様の誘いを一度断ってしまう。
「なつく」ということは「絆を結ぶ」ことである。
絆を結ぶとは、互いにかけがえのない存在になるということ。
世界で一人だけの人、キツネになるということだ。
「そんな時間がない」という王子様に対して、キツネはこう続ける。
”なつかせたもの、絆を結んだものしか、ほんとうに知ることはできないよ。”
”人間たちはもう時間がなくなりすぎて、ほんとうには、なにも知ることができないでいる。
なにもかもできあがった品を、店で買う。
でも友達を売ってる店なんてないから、人間たちにはもう友達がいない。”
この問題を解決するためには「がまん強くなる」ことだとキツネは続ける。
言葉は誤解のもとだから、何も言わず毎日近くに座り続ける。
そして少しづつ距離を縮めていく。そうしてやっと絆を結ぶことができるのだそう。
現代は「我慢する」ということを忘れてしまう世界である。
電話が家庭になかった時代は、帰り道で友達と別れたらそれっきりだった。
ケンカをして別れたら明日会ってみるまで仲直りできるかなんて分からなかった。
しかし、今はSNSというものがあるから、ケンカは別れた後でも続く。
さらに、友達が欲しいなら別に直接会わなくても「友達募集」と呟きさえすれば世界中の人と知り合えてしまう。
でも果たしてそれは本当に友達なのだろうか?
このキツネから言わせれば違うのだろう。
我慢なくして簡単に手に入れたものは、失うのも同じく簡単なことが多いものである。
キツネと絆を結ぶことに成功した王子様は、キツネから秘密を教えてもらう。
その秘密とは、
”ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目に見えない”
”きみは、なつかせたもの、絆を結んだものには、永遠に責任を持つんだ。”
ということだった。
バラの意地悪は目に見えることだった。
しかしバラの王子様に対する愛情は目に見えないものだった。
この愛情を知るためには心で感じ取る必要があった。
そして絆を結んだものには永遠に責任を持たなければいけない。
つまり、その責任を持つ勇気がないのならば、軽々しく絆を結ぼうとしてはいけないのである。
話は少し逸れるが、私が中学生の頃クラスに女の子の転校生がやってきた。
すると、多くのクラスの女子たちが毎休み時間その転校生を囲んでは、さも「私が分からないことは助けてあげる」といった顔をしていた。
そのとき私は、別にその女の子が転校してくる前の自分と全く変わらないでいた。
その子と話したいと思ったら話しかけるし、そうでないときは話しかけないでいた。
だって、その当時の私からしたら転校生だからといって他の子と扱いを変えるなんて、他のクラスメイトに失礼な話だし、その転校生がどんな子かもまだ分からないのに急激に仲良くなろうとするなんて危ないと思ったからだ。
実際、みんなその子が転校生じゃなかったら、そんなに話しかけなかったはずである。
そうして、思っていたとおりのことが起こった。
ある日急にみんなその転校生に近づかなくなったのだ。
あまりの変わりようだった。
今までは休み時間になるとその子の姿が見えなくなるくらいたくさんの人が囲んでいたのに、ある日突然その子は自分の机に一人ポツンと座っているのだ。
今まで仲良さそうに話しかけていた人はどうなったのかというと、その子の悪口を言っていた。
「すぐ調子にのるから嫌い」だとか「わがまま」だとか言っていた。
それを聞いた私は、「それはそっくりそのままあなたのことじゃないか」と言ってやりたくなった。
転校生だからと調子にのって、すぐ友達になろうとし、ちょっと話してみてその子に難ありということを嗅ぎつけたらオサラバ。
わがままにも程がある行為である。
そうされた転校生は不機嫌だった。
それはそうだろう。
そんな手のひらを返されたようなことをされたら、人間不信にもなるし、腹も立つ。
みんなが愛想をつかした分、私はその転校生の子と話す機会も増えた。
そのようにしていたら、またその子はどこかの学校へ転校していった。
何事もなかったかのようにみんなはその子のことを忘れていった。
星の王子様を読んでいて、このキツネの場面になると毎回このことを思い出してしまう。
私も、キツネの言うとおり「永遠に責任をとる勇気がなければ絆は結ぶべきでないし、結ぼうとすることさえも許されない」と思う。
探し物が分からないおとなたち
キツネと別れたあと王子様はある物売りと出会う。
その物売りは一粒飲めば喉が渇かなくなるものを売っていて、これを飲むことで一週間に53分の節約ができるのだそう。
そして、この53分を何に使うのか王子様が物売りに聞いたら物売りは「好きなことにつかう」と答える。
一見、理にかなったことを言っているように思えたのだが王子様の答えはこうだった。
”ぼくなら もし53分あったら、そっと、ゆっくり泉にむかって歩いていくよ・・・・・・”
私はこのやりとりを読んでハッとした。
物売りは節約できた時間を「好きなこと」につかうと言っているが、本当にそうするのだろうか?
冒頭にあったように「大事なこととそうでないことをいっしょくた」にしている大人が、何もかもできあがった品を買っている大人が、「自分の好きなこと」なんて分かっているのだろうか?
多分分かることはできないので、浮いた時間を「好きなこと」ではなく「(大人のいう)大事なこと」に使ってしまうのだろう。
そうして、節約しても節約してもまた時間が足りなくなっていく。
それなら、王子様の言うとおりゆっくり泉に向かって歩いて行った方がはるかに理にかなっている。
後に王子様は、
”人間たちって 特急列車に乗ってるのに、なにをさがしているのかもうわからないんだね。
だからせかせか動いたり、同じところをぐるぐるまわったり・・・・・・
そんなこと、しなくていいのにね・・・・・・”
と呟く。
今の世の中のほとんどの人たちは、目的地の決められていない特急列車に乗って同じ所をぐるぐる何周も回って人生を終えていっているのかもしれない。
私たちは、その特急列車から降りなければならない。
降りて、時間をかけていろんなものと絆を結んで、ほんとうに大事なことを知って、生きていかなければならないのだ。
そんなことを、王子様は私たちに伝えて、もといた星に帰って行った。
まとめ
いかがでしたか?
『星の王子さま』は何度読んでも、その読んだ時々によって感じることが変わります。
まだ、本を読んだことがない人も、一度読んだことがある人も、再び手にとって物語に触れてみてはいかがでしょうか?