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わらびです。
皆さんは最近「時間を奪われた」と感じた瞬間はありますか。
わたしはありました。
驚くほど退屈な映画を観てしまったとき、
エンドロールが流れ始めた瞬間に、
こんな心境↑になりましたし、
同時に「貴重な時間を奪われた」と感じました。
しかし、次の日運動していてふと気づいたのです。
時間を奪われたと感じるのは、自分が他人任せだからだと。
映画と原作の違い
わたしは、その映画に娯楽や気づきを期待していました。
その映画を観れば心が豊かになり、素晴らしい余韻に浸れると思ったのです。
しかし、それは他人任せなこと。
本当は、映画の力を借りず、自分で心が豊かになれるであろうことをすればいいはずです。
心が豊かになるのに、必ずしも映画は必要ありません。方法はいくらでもあります。
”自分”で自分の心を豊かにする方法があるのです。
まして、映画は一度観始めたら終わるまでずっと受け身の姿勢です。
自分から「観よう」としなくても、勝手に映画は進んで行きます。
映像というエンターテインメントを一方的に提供してくれるのです。
しかし、同じ内容でも、原作で読もうとすると受け身の姿勢では、結末まで絶対にたどり着けません。
「あ~あ、なんか読むの面倒だな~」と思って文字を追うことを止めた瞬間、そこで物語は中断されるのです。
結末がどうなるか知りたいなら、自分で読み進めるしかないのです。
だから、原作のある映画の場合、原作を読む方が「時間を奪われた。無駄にした」と感じることは、極めて少ない気がします。
勿論、原作を読む方が映画を観るより遥かに時間がかかることが多いのですが、それでもなかなか「時間を奪われた」と感じにくいのです。
それは、他人任せではなく自ら責任を持って「読みにいく」からです。
それに原作の場合、途中で諦めることが容易です。
「もうこの話、読みたくない」と思ったらすぐに読むことをやめることができます。
それは、やはり原作は読もうとしなければ、読み進めることができないからです。
しかし、映画は心の中で「なに?この映画・・・何が言いたいのか全然分からないんだけど・・・(←先日の自分の心境)」と思っていても、
自分の気持ちなど無視して勝手に進んで行きます。
だから、止め時が難しく、結局最後まで観てしまい「時間を奪われた」と感じやすいと思うのです。
けれど、それはその映画に責任があるのではなく、「楽しさ」「有意義さ」を、映画を観るという行為を通して他人任せにしたことに原因があるのです。
映画に楽しい気分にさせてもらうのではなく、自分がその瞬間楽しくなる。
映画を観るよりは、原作を読む。→原作を読むよりは、自分で読みたい内容を書く。→そもそも書かずに、今、笑う。
こんな風に、できるだけ受け身の姿勢にならない、自分が主体となって行動することを意識すれば「時間を奪われた」と感じることは、とても少なくなっていきます。
自分の欲求に自分で責任を持つ
例えば、レストランに行って注文した料理がなかなか届かない状況を想像します。
30分経っても料理が運ばれてきません。1時間後にようやく注文していた料理が運ばれました。
店員に事情を聞くと、うっかり忘れられていたそうです。
やっと届いた料理も、長い間待っていたわりには美味しくありません。
こんな状況に遭遇すると、多くの人は「時間を無駄にした。奪われた(このレストランに)」と思うでしょう。
けれど、そうではないのです。
原因は、自分の欲求をレストランに任せたことなのです。
カレーを食べたかったなら、自分でカレーを作る。
自分でカレーを作っておいて「時間を奪われた」と感じる人はいないでしょう。
それは、自分でカレーを作っている時間は、他人任せではなく、自分が主体となって行動している”生きた時間”だからです。
つまり、自分で自分の欲求に責任を持たずに、他人任せにしている以上、あれこれ「この映画は退屈だった」とか「料理を運んでくるのが遅すぎる」とか文句を言う資格はないのです。
嫌なら自分でやればいいだけの話。
「時間を奪われた」のではなく自分で時間を他人に「奪わせている」のです。
時間を奪われたくないのなら、自分の時間は自分で守ること。
そのためには、他人任せに生きるのではなく、自分が主体となって生きること。
人生において、傍観者ではなく、主役を選択することで「時間が奪われる」ことはなくなっていきます。
現代は傍観者を強いられる時代
しかし、現代は昔に比べて主役として生きることが難しくなってきているように感じます。
昔は何でも自分で行動しなければ成り立たない時代でした。
大昔は情報が欲しいなら自分で立札を読みにいかなければならなかった。
新聞は自分で読もうとしない限り、情報は得られない。
それが現代では、一家に一台当たり前のようにテレビが普及し、電源をつければ勝手に雪崩のように情報が流れてきます。
聞こうとしていなくても、その情報はカーペットに染みを作るこぼしたコーヒーのように、じわじわと自分の頭の中に情報が送り込まれてくるのです。
インターネットの動画サイトも、テレビと比べるといくらかはマシですが、受け身の姿勢という意味では同じです。
こんな風に、現代は主役ではなく傍観者として生きることを強いられる時代になっています。
主役となって行動している少数の者たちによって、大多数の傍観者がコントロールされているのです。
それは「時間を奪われている」という意味でもあります。
少数の主役たちが主役として輝くために、大勢の傍観者の時間を奪っているのです。
いわば、強制的に舞台を見せられているようなもの。
そして、その舞台は決して面白くありません。
傍観者ではなく、主役になる
社会はこのように、傍観者として生きることを要求してきますが、主役として生きるか、傍観者として生きるかの究極的な選択権は自らの手にあります。
本当の意味で、人は誰からも傍観者として生きることを強制されることはないのです。
何故なら、人生においては、一人ひとりが主役であるからです。
自分が主役を演じると決めた瞬間から、自分は傍観者ではなくなります。
傍観者ではない人生は、自由で活気的で学びに満ちています。
それは、あらゆる時間が死んでおらず生きているからです。
「時間が奪われる」こともありません。
大事なことは、ただ一つ「主役として生きる」と決意することです。
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