みなさん、こんにちは。わらびです。いつも記事をお読みいただきありがとうございます。
今回は、効率を求めることで、逆に時間を失ってしまうという矛盾について考えたいと思います。
まず、この文章を読んでみてください。
”時間をはかるにはカレンダーや時計がありますが、はかってみたところであまり意味はありません。というのは、だれでも知っているとおり、その時間にどんなことがあったかによって、わずか一時間でも永遠の長さに感じられることもあれば、ほんの一瞬と思えることもあるからです。なぜなら時間とは、生きるということ、そのものだからです。そして人のいのちは心を住みかとしているからです。”
『モモ』より
わたしたち現代社会に生きる人間は、効率を重視してきました。
洗濯機が普及したことで、桶と洗濯板で長い時間をかけて洗濯をする必要がなくなり、
電子レンジが普及したことで、即席で食事を作れるようになり、
携帯電話が普及したことで、相手の返事を待つ時間が圧倒的に少なくなりました。
しかし、これらの文明の利器が発明されたことで、たくさんの時間が節約されたはずなのに、現代人の多くの人は、「時間がない、足りない」とあくせくしています。
いったい、洗濯機や電子レンジ、携帯電話で節約したはずの時間はどこにいったのでしょうか。
その疑問の手がかりとなるのが、「時間とは生きることであり、その時間にどんなことがあったのかに大きな意味がある」ということです。
洗濯機がなかった頃は、川や共同の井戸で洗濯をしていました。
すると、洗濯をしている間に、他の洗濯をしにきた人と会話したり、歌ったりしていました。
ところが、洗濯機で洗濯をするようになって、これらの会話や楽しい歌の時間を失ったのです。
電子レンジがなかった頃は、時間をかけて料理を作るしかありませんでした。美味しい家庭料理は話を弾ませてくれるものです。美味しい料理は、食べることがメインというよりも、美味しい食事によって生まれる会話を楽しむものでもあります。そして、心のこもった料理を食べることで、食事中も、食べ終わった後も、満足感を感じます。
ところが、電子レンジで作られた料理は、心を満たしてくれません。レトルト食品は、空腹を満たすだけで、あっという間に食べ終わり、楽しい会話の時間や満足感は、愛情をこめて作られた手作りの料理ほどは生まれないものです。
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携帯電話がなかった頃は、手紙のやりとりが当たり前でした。一文字ずつ手書きしている時間は、相手のことを思っている時間でもありました。そして、返事がすぐには返ってこないことで、余計に相手のことを思う時間がありました。
ところが、携帯電話が普及して、すぐに相手の返事を聞くことが出来るようになると、早く会話が終わってしまう分、その相手のことを思う時間が失われました。
そうして、人間の心を満たしてくれる時間を失い、代わりに残ったのはただの雑事になりました。
つまり、時間とは単に数字としての「1時間」や「2時間」ではなく、生き方だったのです。
だから、時間を節約するということは、時間を失うことになるのです。
矛盾のように感じますが、時間を持ちたいなら、効率を求めてはいけないのです。
このことについて考える時、こんな場面を思い描きます。
わたしは実際には見たことがないのですが、昔のマンガや映画を見ていると、朝は晴れていたのに午後から雨が降ってきた時、傘を持っていっていない旦那さんのために、奥さんが傘を駅まで届けに行くという場面が登場することがあります。
わたしはこの場面がとても素敵だと思うのですが、現代では折りたたみ傘が普及しており、天気予報で午後から雨が降りそうだという情報を知れば、カバンの中に折りたたみ傘を持参して行く人が多いので、なかなかマンガや映画のような体験をする人はいないと思うのです。
でも、わたしはそんな折りたたみ傘が当たり前になった現代を悲しく思います。
確かに、折りたたみ傘を持参していれば、奥さんを待たずに、駅から自宅まで帰ることができて便利?なのですが、奥さんを待って一緒に駅から帰る方が、贅沢な時間が流れているような気がするのです。
傘をさして一緒に駅から歩きながら、仕事であった出来事を話したり、今日の料理はね・・・と話したり、そんなゆっくりと流れる贅沢な時間が、折りたたみ傘によって奪われたような気がしてならないのです。
車が一家に一台が当たり前になって、目的地に早くたどり着くことが出来るようになりましたが、早くたどりついても、だからなんなのだろうと思うことが最近多々あります。
というのも、私の子どもの頃の話です。
当然みんな車で移動はしません。
歩きか、せいぜい自転車です。
車で行けば10分で着くような所へ、自転車で30分以上かけて行くこともありました。
けれど、今思い出すのは目的地に着いてからの出来事ではなく、みんなで自転車で漕いでいた時間なんです。
汗をかきながら自転車を漕いで、「遠い~」とか「暑い~」とか言って、冗談を言ったりしていた目的地に着くまでの時間。これが本当に楽しかったのです。
ある時は、どこにもいく場所がないから、ただ自転車でぶらぶらしたり、公園でブランコに座ったり、特に何もしないのだけれど、なぜか楽しかった。
そんな特に何もしないし、起こらないのだけれど、”何故か充実していた時間”が、大人になるにつれなくなっていったと思います。
それは何故かと言うと、大人になると要領を得てしまっているので、今更非効率な方法には戻れないようになるからです。
折りたたみ傘の便利さを知ってしまえば、もう雨宿りなんてしたくないと思ってしまうし、車の便利さを知ってしまえば、わざわざ夏は暑くて、冬は寒い自転車に乗ろうとは思わなくもなります。
その方が、楽だからです。
けれど、その代償に充実した時間を失ってしまっているのです。
自転車で30分かけて行った場所に、車で10分で着く。これは20分節約したとも言えますが、自転車で行っていればあったであろう20分を失ったとも言えます。
自転車で行っていれば、あったかもしれない笑い話。
自転車で行っていれば、あったかもしれないお悩み話。
一概に数字としての時間を節約することが、人にとって幸福とは言えないのです。
時間について考えさせられる言葉には次のようなものもあります。
”民衆により多くのスポーツを。団体精神を育み、面白さを追求しよう。そうすれば人間、ものを考える必要はなくなる。どうだ?スポーツ組織をつくれ、どんどんつくれ、スーパースーパースポーツ組織を。本にはもっとマンガを入れろ、もっと写真をはさめ。心が吸収する量はどんどん減る。せっかち族が増えてくる。ハイウェイはどこもかしこも車でいっぱい、みんなあっちやこっちやどこかをめざし、結局どこへも行き着かない。誰もかれもがガソリン難民だ。街はモーテルの集合と化し、人間は遊動民族となって潮の満ち干のままここからそこへと動き、お前が今日の昼までいて、おれがその前の夜いた部屋に、今夜は自分が泊まるはめになる。”
”正面にポーチがある家は一軒もないのよね。伯父がいうには、昔は家の正面にポーチがあったんですって。それでね、夜になるとみんなそこにすわって、しゃべりたいときはしゃべったり、揺り椅子をゆらゆらさせたり、しゃべりたくないときはしゃべらずに、いっときすごしたの。ただすわって、じっくり考えごとをすることもあったそうよ。伯父の話では、正面ポーチは見栄えがよくないからって、建築家がなくしてしまったんですって。でも伯父はね、それはもっともらしい理由をあとづけしただけだっていうの。ほんとうの理由は奥に隠されていてね、みんながそんな風に腰を下ろして、なにもせずに、ただ揺り椅子をゆらしたり、おしゃべりしたりしてすごすのはよくない、社会生活としてまちがっていると思われたんじゃないかって。そんな風だと人はしゃべりすぎる。考える時間もできてしまう。だから正面ポーチを持ち逃げしたんだって。庭もそうよ。なにもしないで、ぼうっとしていられるような庭は、もうあんまり見かけないわ。それに家具だって。揺り椅子なんて、もうどこにもない。座り心地がよすぎるもの。人は立たせて、走り回らせておけってことだわ。”
どちらも『華氏451度』より
つまり、効率が上がれば上がるほど、スピードが上がれば上がるほど、本当の意味での時間は失われるのです。
時間はいっけん無駄だと思えるものの中にあります。
楽しい時間というのは、目的地に着いてからよりも、その道中の方にあったりするものです。
何もない時間が、何かを生むのです。
そして、楽しい時間とは、どこかに「ある」ものではありません。
それは自ら創り出すものです。
たとえ目的地に着いても、そこにたどり着いた人間が楽しもうとしなければ、楽しくないのです。
ということは、どこかにいけば「充実した時間」があるわけでも、何かをすれば「充実した時間」があるわけでもありません。
大切なのはその時間をどういう気持ちで過ごすかであり、その意味で時間とは数字ではなく、生き方なのです。
私自身、ふと思い出すのは何気ない会話、何気ない出来事ばかり。
大きな出来事より、小さな出来事の方が印象に残っているなんて不思議だと思いますが、それは、小さくて、いっけん無意味そうに見える時間にこそ、大切なことがつまっている証なんだと思います。
無駄に見える時間は、無駄じゃない。
節約したと思った時間は、実は失っている時間かもしれない。
そんなことをいつも頭の片隅に置いて、時間と向き合いたいものです。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

モモ (岩波少年文庫)

華氏451度〔新訳版〕