悪い予言をする人は悪魔に操られた人

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わらびです。

小林正観さんの著書『もうひとつの幸せ論』という本を読んでいたら、面白いことが書いてありました。

世の中には何かを予言する人がいますよね。

それが、嬉しい楽しい予言なら良いのですが、中には「大地震が起きる!」とか「大飢饉が起こる!」とか、そういう恐ろしい予言をする人がいます。

この本には、「そういう聞いていて楽しくない予言=悪しき予言は当たらないし、そういう悪しき予言をする人は、悪魔にコントロールされている人である」と書いてあったんです。

どうして、悪しき予言をする人が悪魔に操られている人と言えるのかと言うと、この理屈がまた面白いのです。

悪いことが起きますようにと祈る予言者

悪しき予言をした人は、その予言をした時から、自分の信用のためにそういう恐ろしい出来事が現実に起こるように、心の中で祈り始める(本人は気付いていない)。

そして、何千人、何万人も死ぬような出来事を潜在意識の中で祈ると魂を悪魔に乗っ取られる。

悪魔に魂を操られている人は「聖なる側」にいないから、正しい情報が入ってこない。

だから、「まったく当たらない」という理屈なんです。

この理屈を読んで、確かにきっとそうに違いないと思いました。

やっぱり人というのは、自分を認めて欲しい、自分を凄いと褒めて欲しいという承認欲求を持っています。

だから、恐ろしい予言をした人は、それがどんなに本人にとって起きて欲しくないことでも、人前で予言してしまった以上、「ほら自分の言ったとおりでしょ?」と言って、「あの人はすごい」と思われたいから、心のどこかでは自分の予言通り大惨事が起きて欲しい(そうじゃないと、自分は嘘つきで。価値が無いと思われるから)と願ってしまう。

そんな何千人、何万人も死ぬことを願うのかと思うけれど、予言した人は、やっぱり心のどこかではきっと、それが起こることを期待してしまうと思うのです。

「大飢饉が起きます。だから今のうち準備して起きましょう!」なんて呼びかけて、たくさんの人を不安にさせ、準備させ、自分も準備したなら、それはもう「本当に起きて欲しい(せっかく準備したんだから)」と悲惨な出来事が起きるのを余計に期待してしまうでしょう。

でも、そんな恐ろしいことが起きるのを願うなんて善良な人ならしないはずです。

それに、大惨事を潜在意識レベルで願い始めた人は、ちょっともうおかしいと思うのです。

悪魔に操られているとも考えられるし、その人自身が悪魔になってしまったとも考えられます。

良い予言をする人は善良な人

この理屈で考えると逆に聞いていて楽しくなる良い予言をする人は、善良な人です。

良い予言をした人は、自分の信用のために、実際に良いことが起こるように祈り始めます。

「どうか一年以内にあの人に幸福が訪れますように」「あの人の悩みの種が解決しますように」と、他人のために一生懸命祈るのです。

そんな人はやっぱり良い人と言えるでしょう。

そして、良い人は悪魔の側ではなく、それと正反対の「聖なる側」にいるから、正しい情報=直感を受け取りやすく、予言が当たりやすいことにもなります。

わたしはもともと、占いとかでも悪い予言は信じず、良い予言しか信じないのですが(笑)、それで正解ということにもなります。

人はそれをお花畑と言うかもしれないが

悪い予言をすると、その予言を聞いた人は心配になり、だんだん怖くなってきます。

「本当にそうなったらどうしよう」「どうしたら助かるのだろうか」と、一日中その悪しき予言に心を奪われることになるんです。

それは可哀想なことだと思います。

その予言を聞くまでは毎日明るく楽しく生きていたかもしれないのに、恐ろしい予言のせいで、その人の人生を一変させてしまったのです。

そんな酷いことをする人は、わたしは良い人だとは思いません。

それに、大惨事が起きようが起きまいが、そもそも人はいつ死ぬか分からないのです。

明日死ぬかもしれない。

もし、その人の寿命が明日だとして、恐ろしい予言を聞かせて、不安を煽るなんてしたら、その人は死ぬに死にきれないと思うんです。

どうせこんな形で死ぬのだったら、予言なんて知らずに楽しい気持ちで死にたかった。そう思うのではないでしょうか。

だからそういう意味でも、怖い予言なんて人にすべきではないとわたしは思います。

当たっても大変なことになるから酷いし、当たらなくても不安を煽るだけ煽ってて何も起こらないから酷い。

そして何よりも、そんな怖いことが起きるように祈るのが一番酷い。

人はいつ死ぬか分からない。

たとえ大惨事のために準備していて、そのおかげで大惨事を乗り越えられたとしても、別のあっけない理由で死んでしまう可能性だって大いにあるんです。

だとしたら、究極的には、今を楽しく一生懸命に生きることしかできないのです。

楽しく幸せに生きて駄目だったら諦めもつく。けれど、その逆は、それは辛いでしょう。

それに楽しく幸せに生きる人というのは、周りの人も楽しく幸せにします。

そんな良い人は、たとえ大惨事が起きても、きっと神様が助けてくれる。そんな気がします。

良い予言をする人は尚更です。

良い予言をされた人は、その間ウキウキして幸せだし(そして、だから楽しいことも起こりやすい)、予言した人は、その人が本当に幸せになれるように祈るから楽しい。

すると楽しいエネルギーがどんどん高まって、本当に幸運に恵まれたりする。

だから、言うのも信じるのも良い予言だけにして、毎日を楽しく生きた方が結果的に救われる確率も高いのではないかと思います。

ある人はそれを「お花畑」と呼んで馬鹿にするかもしれませんが、その「お花畑」には科学では証明できない、驚くべき力があるのではと、わたしは思います。

第一、科学、科学と人は科学を最重要視し、信頼していますが、科学で証明されていない、解明されていないことの方が世の中にはたくさんあるのです。

だとしたら、逆に科学で証明されていないことを信じる方が、理にかなっていると思いませんか。

例えば世界の真実が100あったとして。そのうち1が科学で証明された真実だとします。

科学で証明されたことしか信じないというのは、この例えで言う残りの99の真実を信じないと言ってることなんです。

それは、非常に勿体ない人生の生き方だと思うのです。

世の中に100の真実があるなら、やっぱり100の真実を活用して生きたい。

そうするためには、科学で証明されていない、不可思議な分野にも目を向け、自分で判断する必要があるのです。

それに科学は、人間の科学です。

人間の脳の仕組みだってまだ完全に科学で証明されていないのに、その証明できない脳でもって科学している。

そう考えると、「科学的に証明されている」という言葉がおかしく聞こえてきませんか。

自分のことすらよく分かっていない人が「あなたはこうだよ」と言っているようなものですから。

だから、わたしは人が「それはお花畑だよ」と言う考え方に対しても、それが本当にお花畑かは分からないし、分からないからこそ大きな可能性があると考えます。

良い予言をする人、良い予言を盲目的に信じる人の前向きなエネルギーには、大難を小難に変える力がきっとある。そう思います。

だから!

ここに「お花畑能天気パワー同盟」を設立しますっ!ドンッ!!

もるもる君
もるもる君
ぼくも入ろ~♪
わらび君
わらび君
もるもるくんっ!

良い予言だけ信じて能天気に楽しく生きていきましょ~。

最後までお読みいただき、ありがとうございました(^〇^)。

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