↓「注意」以下ネタバレ!↓
映画『イージーライダー』は、バイク好きな人が観る映画である。
↑この認識は間違いだ。
『イージーライダー』はバイクに興味がない人、バイク嫌いな人、いや、そもそもバイクなんて関係なくって、すべての人が観るべき映画だ。
簡単なあらすじは、「コカイン密輸で大金を得た二人の男が、自由を求めて悠々気ままなバイク旅をする~」のだけれど、現実は、その旅に自由はなく、あったのは不条理だけで、その不条理さ故に、主人公であるライダーの男二人は旅の途中で殺されてしまう。
長髪だっただけで、よそ者だっただけで、殺されてしまう。
二人を襲った不条理さとは、セリフに出てくるように「人は自由について語る。しかし、実際に自由に生きる人間を見るのは怖いんだ。」である。
さらに、「アメリカ人は自由を証明するためなら殺人だってする。」
このために、主人公である二人のライダーは殺されてしまったのだ。
ようするに“嫉妬”である。
自由が好き、自由になりたい。
多くの人はそう願う。
けれど、自由に生きるためには、それなりの覚悟と代償がいるのだ。
その覚悟も代償を払う気もない、けれど”自由に生きる人間”を発見すると、嫉妬心が生まれ、”自由に生きる人間”を攻撃し、自分だって”自由”であることを必死に証明しようとする。
そして”自由に生きる人間”を攻撃し、”自由でない人間”にすることが出来た時、”自分はこいつより、もっと自由である”と錯覚するが、それは文字通り錯覚でしかなく、ただ嫉妬心を露わにしただけに過ぎないのだが、そのことに本人は気づかないし、気づこうとしない。
気づいてしまえば、自分の自尊心が傷つき、耐えられないからだ。
そんな恐ろしいこと、ほとんどの人間にはできない。
だから錯覚し、蓋をする。
こういうタイプの人間は確かに自由を欲しているのだが、決してそれを手に入れることはできない。
何故なら先にも言ったように、自由に生きるにはそれなりの覚悟と代償を払う必要があるからだ。
人は、「自由に生きられたらどんなに楽だろう」と夢を抱く、しかし現実は、自由に生きることは、そうでないよりもはるかに難しく、楽ではない。
もし自由に生きることが本当に”楽”であるなら、もっと自由に生きている人間を多く見かけるはずだ。
自由に生きるとは、自分の人生を生きることである。
自分の人生を生きるとは、自分の心の声に従い、自分の頭で考え、自分の足で行動し、行動の結果起きた責任は自分が全て負うことだ。
これは、とても勇気のいることであり、大抵の人間は尻込みしてしまい、他人の指示を待ち、指示をした人間に責任を押しつけたがっている。
でも、心の奥底では自由を求めているから、自由に生きている人間を見ると許せない気持ちが芽生える。
「自分は不自由に生きることを我慢しているのに、なんでこいつはそうじゃないんだ。」
その結果が、作中では殺人であり、現実では、いじめだったり、悪口だったり、嫌がらせだったりする。
つまり、『イージーライダー』は何も映画だけの話ではなく、現実にも通用する話なのだ。
嫉妬することが悪いわけではない。
嫉妬で終わらせることが悪いのだ。
嫉妬は胸に抱いておくものではなく、新たな境地に飛び込むバネにするためのものだ。
「ズルい。羨ましい。なんで自分だけ。」そう思ったら、さっさと崖からダイブし、自分がその人間になるのだ。
勇気という名の翼を広げ、自分が飛べていることに気づいた時、さっきまで踏みとどまっていた場所がいかに小さかったか知ることができるだろう。
人生は崖からジャンプ、ジャンプの連続。
飛び降りれば、飛び降りるほど、色々なことを経験できて、成長するし、知ることができる。
もちろん飛び降りるには勇気がいるし、飛び降りた後も困難に直面したりする。
けれど、映画と違って有り難いのは、現実ではそうそう主人公の二人みたいな目には遭わないことだ。
ライダー二人を殺した人間は”自由”が怖かった。
でも”自由”を殺したことで、”自由”を手に入れられるわけじゃない。
手に入れる方法は一つ、殺したり、攻撃するのではなく、飛び込むのだ。
だから嫉妬したり、怖いと思った時はチャンス。
その気持ちは、飛び込む時を教えてくれている合図なのだ。
”いいかい、怖かったら怖いほど、逆にそこに飛び込むんだ。”
”人生に命を賭けていないんだ。だから、とかくただの傍観者になってしまう。” 岡本太郎(芸術家 / 1911~1996)
飛び込んで、傍観者から、主人公へ。