全体の幸福を目指すという矛盾

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今や、強制労働徴用は、地上のあらゆる国で実践され提唱されている。これは、いったい何を根拠になされているのか?ひとりの人間が他の人々にとって有用であるかどうか、そのような有用性が唯一の考慮の基準であり、かつその人間自身の目的や欲望や幸福は無視されてしかるべきであり、重要性などないと決定する最高の権利は、国家に存するという思想がなければ、こんなことは起きようがない。

アイン・ランド『アンセム』(1946年)より

個人の幸福よりも円滑な社会システムの運営が優先されるということ

一人の人間の幸福より、全体の幸福が優先されることは、望ましいことだろうか。

いや、そうではない。

全体の幸福が極端に優先されると、一人一人の欲望や幸福は無視される。

個人の欲望が無視された世界では、人はロボットのように、思考停止し、人間性が失われる。

そうしなければ、生きていけないからだ。

人はあまりにも絶望のどん底に沈みすぎていると、その絶望から目を逸らす。

そしてもはや、そこが絶望のどん底であることも忘れる。

そのような世界は皮肉にも、「全体の幸福」が何よりも優先されることにより出来てしまうのだ。

「全体の幸福」とは一人ひとりの幸福ではない

なぜ、全体の幸福のために行動したはずなのに、このような結果になるのか。

それは「全体の幸福」などそもそもなく、あるとすれば、それはその全体を支配・操作する者たちにとって都合の良い状態=全体の幸福であるからである。

すなわち、全体の幸福の「全体」は、人間みんなの「全体」ではなく、支配者・操作者が操る容れ物としての「全体」なのである。

全体の幸福1

世の中に強制収容所が存在しているのも、個人の欲望や人権を無視し、「全体の幸福」を求める者たちがいるからである。

人はみんな違う

だから、「みんなの幸せ」とか「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」とかいう言葉に、何も考えず安直に同意してはいけない。

その言葉の裏には恐ろしい真意・思想が隠されているかもしれないから。

どんなに善良そうに聞こえる言葉でも、自分の頭で考え吟味しなければならない。

「みんなが幸せな世界」というのは「全体の幸福」を目指すことでは成し遂げられない。

なぜなら、人間の欲望は一人ひとり違うからだ。

東が良いという者もいれば、西が良いという者もいる。

喜劇が好きな人間もいれば、何よりも悲劇を好む人間もいる。

千差万別の人間の思想を、たった一つの思想に置き換えることはできない。

無限の数ほどある人間の思想が、たった一つの思想に置き換えられたとき、それは絶望の世界の到来であり、人間性の剥奪の時代が到来したことを意味する。

一人ひとりが自分を生き切ればいい

一人一人は一人一人であり、一人一人が”一つ”にはならないし、なってはいけないし、なろうと目指してもいけない。

一人一人が自分を生きること。

何よりも自分の心に忠実であること。

一人一人の個人的な歓びなくして、全体が歓喜することは決してないのだから。

自然を見ればそれが分かる。

自然の生き物たちは、全体の幸福のために生きようとはしていない。

ただ己の生命を本能のままに生きているだけである。

しかし、無数の生命たちによって創り出された自然は、まさに大歓喜の世界である。

自然は一見無秩序に見えるが、そこには完璧なバランスであり秩序がある。

その完璧なバランスと秩序は、造られないからこそ、造られるのだ。

目的たてるとスコタン。~己の為にすることは人の為にすることぞ。思いは力、実在ぞ。

『日月神示』 第二十四巻 黄金の巻 第五帖 より

その通りなんだ。

目的なんて、いらない。

ただ、いつも自分の心や直感に耳を傾け、自分の心に正直に生きるんだ。


アンセム
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