わたしたち、我々とわたし

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<我々>という言葉は、人の上に降り注ぐ石灰のようなものだ。それは積もり積もって固まり、石となり、その下にあるものをすべて打ち砕く。白いものも、黒いものも、石灰の灰色のなかに等しく失われてしまう。<我々>という言葉によって堕落した人々は、善良なる人々の美徳を盗む。弱者は強者の力を盗む。愚劣なる人々は、賢者の知恵を盗む。<我々>という言葉は、そういう言葉なのだ。

アイン・ランド『アンセム』(1946年)より

・「わたし」という言葉が失われた世界

超平等社会が到来したら、「わたし」という概念を奪われるだろう。

なぜなら「わたし」とは、個人であり、個性であり、違いであり、それらは超平等社会の中には存在してはいけない要素だからである。

みんなが平等ということは、みんなは「一つ」でなければならない。

だからそういう社会では自分のことを「わたし」ではなく、「わたしたち」と述べる。

「わたしは幸せです」と言う代わりに、「わたしたちは幸せです」と言うようになる。

そうなると、同調圧力もかかってくるようになる。

自分は幸せでないのに、他の人はみな「わたしたちは幸せです」と言ってくるのだから、幸せでいなければいけないような気になってくる。

でも、無理をして幸せを感じるのはできないから、苦しくなる。

わたしたち、我々とわたし1

苦しさが長引けば、抵抗する気も失せ、生きる気力がなくなる。

そうして世の中は、気力をなくした人間だらけになり、社会は堕落する。

それは、「わたし」という言葉を排除して「わたしたち」という言葉に置き換えたことから始まった。

・「わたし」の排除は、自我の排除

「わたし」という言葉の排除は、「自我」の排除と言い換えることができる。

しかし、人間というものは自我があるものなのだ。

その自我を奪うということは、人間性を否定することである。

人間性を否定した社会とは、無機質なコンクリートのような世界であり、それは超平等社会の行く末の世界なのである。

だから言葉を奪ったり、置き換えたりすることは恐ろしいことなのだ。

人間は言葉を使って思考するから、ある言葉が奪われることは、その言葉の持つ概念を奪われることを意味する。

それはつまり、人間からその概念を奪うことになる。

わたしたち、我々とわたし2

・言葉を守ることは、自分の思考を守ること

言葉はとても大切だ。

言葉を守ることは、その言葉がもつ意味・概念を守ることである。

言葉を守るとは、奪われないようにするだけでなく、使う言葉をよく考えて選ぶことでもある。

どの言葉を使うのが適切なのか、常に考えなければいけない。

言葉を大切にしよう。それは自分の思考を大切にすることでもあるから。


アンセム
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