「人間は神である」の意味

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みなさん、こんにちは。わらびです。いつも記事をお読みいただきありがとうございます。

精神世界では「人間は神である」と言われていたりしますが、真面目な人は「こんな未熟な私が神であるはずはない」と思ったりすると思います。

他にも、自分にとって嫌な人がいると「あの人が神だなんて到底思えない」と思うこともあるでしょう。

わたしはこのことについて、「人間は神である」のではなくて、「人間には神様の分け身魂が授けられている」と解釈しています。

だから、そのままでは神ではなく、あくまでも人間なのですが、身魂を磨けば、その身魂は神様から与えられている分け身魂なので、本来の輝きを取り戻し、神様と一体化=神人になるのではないかと思っています。

つまり、どんな人にも神性が宿っているのです。

だから、イライラしたり、それで腹を立てたりしてしまって、「こんな私は神なんかじゃない」そう落ち込むのは間違いなのです。

今は、イライラしたり、怒ったりしてしまうけれども、神様からの分け身魂は既にいただいているのですから、ただ磨けばいいのです。

今は磨き方が足りないから、怒ってしまったりするだけで、磨けてきたら、自然に腹を立てる頻度も減ってきます。

道具もそうですが、与えられたものを生かすも殺すも、使う人次第なのです。

神様は人を分け隔てしないので、みんなに同じ愛情を注ぎ、分け身魂を平等に与えてくださっています。

ただ、その分け身魂を磨くか磨かないかは、その人に委ねられています。

神様は私たちをいつも支えようとしてくれていますが、強制はしないのです。

そして、世の中には、分け身魂を磨く人と磨かない人がいます。

だからといって、身魂磨きをしない人が悪いとかそういう意味ではありません。

身魂磨きをしない人だからといって、その人の中に神性が宿っていないわけではないのです。

イジワルな人に対して、その人を神様と認識するのは確かに難しいでしょう。

だから、その人を神様として見るのではなく、その人の中の神性を見るのです。

「この人はこんなにイジワルな人だけれど、この人の中にも神様から授けられた分け身魂があるんだ。だから、そういう意味でこの人にも神が宿っている。」

まず、そう認識します。

そして、その人が人の悪口を言ったり、イジワルをするのは、分け身魂を磨かずに、神性が発揮されないからであるので「この人の中の神様の分身が輝きますように」と祈る。

これなら、だいぶやりやすいのではないかと思います。

人間の肉体は借り物であり、着ぐるみのようなものです。

肉体も神様からの借り物なので、大事ですが、それよりもっと大事なのは、中身=精神=魂なのです。

だから、自分に対しても、他人に対しても、見た目で判断してはいけません。

自分の中にも、他人の中にも、みんなの中に、神様の分け身魂が宿っているんです。

その身魂を輝かせるように、自分に対しても、他人に対しても祈りましょう。

それが、精神世界の中の「人は神である」の意味なのではないかと思っています。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


身魂磨きとは、身魂磨きをするには具体的にどうすればいいのかは、コチラ↓の記事に詳しくまとめています。気になった方は参考にしてみてください。

日月神示に相談しよう:身魂磨きについて

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