人を立てると見下される?ーポイントは動機にあり

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みなさん、こんにちは。わらびです。いつも記事をお読みいただきありがとうございます。

こんな質問をいただきました。

他人を敬いなさいという古くからの教えがある一方で、人間関係が上手くいくようにと、自分は下に出て、他人を立てると、実は他人からただ見下されている人もいるが、これはどのように考えたら良いのだろうか。

これについて私の考えを述べていきます。

これは、動機がこうした悩みを生んでしまう問題になっていると思います。

「人間関係を円滑にするために、人を立てる」というのは、一見謙虚で立派な心掛けに見えますが、よくよく考えてみると結局は「他人と波風立てたくない自分のため」という計算に基づいた行動だと思います。

しかし、本来「他人を敬いなさい」という教えは、「人間関係を円滑に」という目的とは無関係なものです。

「他人を敬いなさい」という教えが存在している理由とは、人間ひとり一人が神様の分け身魂が与えられている、神様の分身であり、つまり、どんな人の中にも神様が宿っているのだから、尊重しなさいという意味です。

ようするに、自然に感謝することと同じです。

自然に感謝するのは、自分が得をするためではありません。

ただ有り難いから感謝するのです。

人に対しても同じです。

ただ、その人の祝福を願うために敬う。これだけです。

だから「他人を敬いなさい」という教えには、本来対人関係は発生せず、個人の心の中で完結するものなのです。

けれど、「人間関係を円滑にするため」「波風立たないようにするため」という動機をもってこの教えを実践すると、対人関係が発生します。

なぜなら、この教えを実践したからといって、本当に人間関係が円滑になるのか、波風が立たないかは、分からないからです。

だから「教えを実践したのに、蓋を開けてみるとただ自分が見下されているだけだった。悲しい」となってしまうのです。

それに勘が鋭い人なら「この人がこんなに謙虚な姿勢でいるのは、自分の利益のためだ」と気付いてしまいます。

すると人によっては「そんな小手先のテクニックに騙されてたまるか」と、逆に心を頑なにしてしまいます。

そして、見下したり、馬鹿にするという行為に及ぶのです。

それに、そもそもどんな教えにも100%対人関係を成功に導くものはありません。

どんな善人でも全ての人から好かれることはありません。

なぜなら「善人を嫌う人」が存在するからです。

だから、どんな教えを実践するにしても、自分の中で完結させなければなりません。

他人の評価を基準にするのではなく、自分の軸を基準にするのです。

「見下され、馬鹿にされた」と感じるのは、その人が他人の評価で判断しているからです。

だからどの教えも「自分がそうしたいから実践するだけ」こういう気持ちで取り組むべきなのだと私は考えています。

「見下され、馬鹿にされる可能性もあるなら他人を敬うことはしたくない」それでも全然良いのです。

どんなに良いことを実践しても、見下す人はいるし、馬鹿にする人もいるし、敵意を持つ人もいます。

教えは、これらの見下す人、馬鹿にする人、敵意を持つ人の存在をゼロにするものではありません。

だからそれが嫌ならすぐにやめてしまうといいのです。まずは自分が陽気に生きなければなりませんから。

それでも、精神を磨くためにやっぱり教えを実践したいという人は、教えの本当の意味自分の軸を基準にするということを、思い出すといくらか心はラクになるのではないかと思います。

今回の内容は、以前紹介しました「挨拶を返してくれない人に対する考え方」と似ていると思います。

その記事でもお話しましたが、他人を基準にすると絶対につまずきます。振り回されてしまうのです。

だから、結果に期待し左右されるのではなく、その行為を行った「その時点」で完結させる。すると、そこで「終わってしまう」ので、自分にとって一番ラクだと思います。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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