日常に潜む身近な差別 バイク絶対抜かすマンから考える人間の心

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誤解を避けるためにはじめに述べておくが、わたしは決して今から書くことによって、誰かに訴えたいとか、誰かに変わって欲しいとか、世の中が良くなることを願うわけではない。

ただ、私の考えたことを書き記しておきたいだけである。

差別と聞いて何を思い浮かべるかと聞かれたら、多くの人は「人種差別」と答えるのではないだろうか。

白人による黒人差別。

これにより、実に多くの黒人が理不尽に殺されてきた。

そしてこの人種差別は、過去の産物ではなく未だに社会に根深く存在している。

日本は一応単一民族国家だから、人種差別はあまり問題にならない。

だから、差別という言葉を聞いても、いまいち想像ができない。

しかし、日本にも差別は確かに存在する。

それは、在日韓国人に対してでもなく、出稼ぎ労働者に対してでもなく、もっともっと身近なところでだ。

それは四輪ドライバーによるバイク差別である。

バイク絶対抜かすマン

「バイク絶対抜かすマン」という言葉がある。

これは、バイクを抜かなければならない特別な理由がないにもかかわらず、そしてバイクを運転しているライダーには何の問題行動がないにもかかわらず、バイクを認知しただけで無理な追い抜きをする四輪ドライバーのことを意味している。

インターネットで「バイク絶対抜かすマン」と検索すれば、非常に多くの四輪ドライバーによる危険極まりない追い抜き動画を見ることができる。

わたしは、この心理が分からなかったので調べてみた。

すると、「バイク絶対抜かすマン」は単に「バイク嫌い」であることが分かった。

嫌いだから、バイクを発見すれば、わざと危険な追い抜きをするのである。

では何故「バイク嫌い」なのか、さらに調べてみると、様々な理由が出てきた。

一つは、一部の運転マナーの悪いバイク乗りが理由。

しかし、一部マナーの悪いライダーがいるからといって、全てのライダーのマナーが悪いとはならず、しかも、いくらマナーが悪いからといって危険な追い抜きをしていい理由にはならず、もっともな根拠とはいえない。

二つ目は、これが「バイク絶対抜かすマン」程の極端な四輪ドライバーだけでなく、多くのドライバーの意見で多かったのが、「ちょこまかしてイライラする」「ウザい」「目障り」であった。

自分本位なドライバーたち

わたしは、この理由を読んで恐ろしいと思った。

何故なら、あまりにも単純な、あまりにも主観的な理由だからだ。

バイクは車に比べると、たとえ大型バイクでもはるかに小さく、車重が軽いから当然機敏な動きになる。

だから「イライラする」?

中にはこんなことを言う人もいる。

「自分の前を走っているバイクが突然転倒されたら困るから、車線を変えるようにしている。」

わたしには、この言葉がとても恐ろしく、おかしく、奇妙なものに感じられて仕方がない。

まず第一に、バイクが突然転倒しても安全に止まれるくらい車間距離を空けて走ればいいだけの話であるし、(実際に二輪車は四輪車のように急に止まれない。急に止まることは転倒を意味する。この前提が分かっていれば、二輪車の後ろを走行する時は、四輪車の後ろを走行する時よりも車間距離を空けておくはずだ。)「困るから車線を変える」のは、その人の勝手だが、根底にあるのは責任転嫁の心理である。

こういう人は最終的にはこう言うだろう。

「歩行者は危ないから、車に乗らないなら外を歩かないで欲しい。」

こんなことを言う人もいる。

「自分の前を走っているバイクが突然転倒されたら困るから、バイクにはどんどんすり抜けして、一刻も早く自分の周辺から消えて欲しい。」

自分本位にもほどがある発言である。

こういうことを平気で言える人は、恐らくバイクに一度も乗ったことがないのだろう。

まず、すり抜けには危険のリスクがあるし、さらに問題なのは、「すり抜けをするライダーを嫌うドライバー」がいることだ。

あるドライバーは「すり抜けして、自分の視界から消えて欲しい」と言う、またあるドライバーは「自分はちゃんと並んでいるのに(←それしかできないからやっているだけにすぎない。また、すり抜けは違法でもない。)、抜きやがってズルイ。許さん。」と言う。

何が言いたいか。

あまりにも、皆自分勝手すぎるということである。

バイクは誰が見ても明らかなように、人間が物理的な空間に守られておらず、常に外部に露出している。

事故をすれば、重傷になりやすいのは容易に想像できる。

そのため車対二輪の事故では、二輪の方がよほど悪質でない限り、過失割合が低く算定されやすい。

つまり、車対二輪で見ると、バイクは交通弱者なのだ。

「バイク絶対抜かすマン」や「自分本位なドライバー」には、この認識が欠けている。

だから、「なんかムカつくから」とか「運転しにくいから」とか、そういうドライバーとして恥ずかしい発言を堂々と言えるのだ。

そして、そのようなドライバーたちが残念ながら多く存在していることで
、バイク差別が起きている。

つまり、欧米では白人至上主義が横行しているが、日本では車至上主義が横行しているのである。

白人至上主義と車至上主義

なぜ、白人至上主義が存在してしまうのか。

それは、白人の方が黒人よりも権力を持っているからである。

ではなぜ、車至上主義が存在してしまったのか。

それは、バイクより車の方が破壊力や事故した時の被害の度合いなど、色々な意味で”強い”からである。

差別とは、権力や力がある者が、ない者に対する迫害である。

そして、間違えて欲しくないのは、権力や力がある者が偉いわけではないとうことだ。

ドライバーの中には「バイクは車に道を譲って当然だ」という考えの人間がいるらしいが、これは完全に誤った考えである。

それは大飢饉の時に「庶民は王族に食料を譲って当然だ。(庶民は別に餓死してもいい)」と言っていることと同じである。

「車至上主義なんて大袈裟な。」という人もいるかもしれない。

しかし、身体が常に外部に露出している人間に対して、幅寄せしたり、ギリギリの間隔で追い抜きしたりすることは勿論のことだが、意地悪をしたり(それがちょっとしたことでも)、「ムカつく」とか「イライラする」という感情を持ったことがある人間は、白人至上主義と少しも違わない、車至上主義の人間であると自覚した方がよい。

上に挙げた行為を日常的に平気で行っている人が、「黒人差別」をテーマにした番組や映画を見て「黒人の人たちかわいそう(ピエン🥺)」なんて言っていたら、わたしは吐き気を催しそうでならない。

何故か。

偽善者を見ているからである。

しかし、こういう人たちは少なくないだろう。

黒人差別によって白人から虐げられている黒人の人たちを哀れむ前に、同じ日本人で同じ日本人によって差別され、意地悪されたり、時には攻撃されているバイク乗りたちを哀れむべきじゃないのかと思う。

黒人差別も人を殺害するが、バイク差別も人を殺害する。

公道で時速50km、60kmで幅寄せしたり、ギリギリを追い抜いたりすることは、殺人未遂となんら変わらない。

本人には実際に殺人する故意はないのだろうが、イライラしたり、ムカついてその行為に及んでいるのなら全く故意がないとも言えない。

「ついカッとなって殺った。」と同じである。

だが、ここまで述べてもう一度わたしの冒頭の言葉を思い出して欲しいのだが、わたしは「バイク絶対抜かすマン」にも「バイク嫌いのドライバー」にも、「その行為を正して欲しい」とか、そういうことのために、この記事を書いたわけではない。

わたしが一番言いたいことは、権力や力を持つ側が、そうでない側を虐げるという差別的構図は、何もアメリカやヨーロッパにだけあるわけでなく、車至上主義として日本に存在しているし、人間とはそういう恐ろしい心を持っている生き物だ、ということである。

差別はどこか他の国や、他の学校や会社にあるのではなく、もっと身近な自分の心にあるということだ。

わたしは今日本で「バイク嫌い」で実際にどんな些細なことでもバイク乗りに対して、幅寄せや危険な追い越し等、実力行使をしたことがある人は、その人がもしアメリカ人で白人に生まれてきていたら、黒人差別をやっていただろうと思う。

なぜなら黒人差別もバイク差別も先に述べたように、基本的な構図は全く同じだからだ。

実力行使はまだしたことがなくても「イライラしたり」「ムカつく感情」を抱いたことがある人も、その心の奥底には「差別心」が根付いているから、やはり白人に生まれていたら、黒人の人を差別しやすい傾向にあるだろう。

自分の心にあるナイフに気付く

そして、これは何も車至上主義に限ることではない。

認識していないだけで、身近に多くの差別的構図が存在している。

認識していないから、自分が差別主義者だと気づかない。

差別は自分以外のところで起きていると思ってしまう。

だから、まずは認識すること、気づくことが大切なのだ。

「ムカついたり」「イライラした」時に、立ち止まって「どうしてムカついたんだろう」「どうしてイライラしたんだろう」と疑問に思う。

そして自分の心の奥底にある差別心に気づく。向き合う。

それから行動を改めるかどうかは、その人次第。

けれど、この立ち止まって考え、自分の邪悪な一面に気づかないでいることは、非常に恐ろしいことである。

それは、ナイフが時に危険な道具であることを知らない人間が、ナイフを振り回しているようなものだ。

自分の内側に存在しているナイフに気づいていないのだ。

ナイフは他人を傷つけることができるが、素手で刃を強く握りしめれば自分も傷つく。

あなたには、黒人を殺害した白人の人々が幸せそうに見えるだろうか。

そうではないだろう。彼らは黒人を殺害しても満足せず、さらに血眼になって黒人を殺害する理由を見つけている。自分のナイフに傷ついている。

イジメのリーダーが、楽しそうだと思うだろうか。

わたしは実際に見たことがあるので分かるが、イジメのリーダーに誰一人楽しそうな人はおらず、皆不満そうであった。彼ら彼女たちもまた、自らのナイフに傷ついていたのである。

いじめについては様々な記事を書いているので、気になる人はそちらも読んでみて欲しい。

関連記事📝「いじめられている人も悪い」は、あり得ないーいじめられる原因なんて存在しない

しかし、間違えてはならないのは、ナイフが危険なのではなく、適切な使い方を知らずに所持するのが危険なのである。

だからまず、ナイフの存在に気づく。それが一番大切なことだ。

存在に気づかないことには、説明書を読むことも、扱い方を意識することもない。

しかし、どんなに鋭利なナイフでも使い方を間違わなければ危険でないように、自分の内側にあるナイフも、その存在に気づき、向き合うことができれば危険ではない。

誰にでも差別の心はあるものだ。

誰だって自分が一番可愛いのだ。

だから、差別する自分が悪いとか、そういうのではなくて、一番問題なのは差別する自分に気づいていないことなのだ。

なんでも知ること、気づくことが一番大切。

差別をして最も傷付くのは誰よりも自分である。

何故なら、差別される人は何か加害行為を受けるまでは気づかないが、差別する人は、まず嫉妬や、憎しみ、苛立ちなど精神衛生上良くない感情と波動を自ら発し、それによるダメージを受けているからである。

そして、実際に差別行為を行っても絶対にスッキリすることはない。そうした感情があったとしてもほんの一時だけで、真の意味で楽になることはない。

何故なら、投げかけたものは自分に帰ってくるからである。

あなたは苛立ちや、憎悪を投げかけた。

だからそれが、喜びになって帰ってくることはありえない。

帰ってくるものは、同じ、いやそれ以上の苛立ちや憎悪である。

自分の差別心に気づかない限り、こんなくだらない投げ合いを永遠と繰り返すことになる。

そして、自分でも気づかないうちにどんどん精神的に疲れていく。

けれど、気づけばこの負のループを抜け出すことができる。

だからまず、気づくのだ。

自分の心のナイフに。


バイク乗りをテーマにした映画『イージーライダー』も、人間の心のナイフについて考えることができる映画だ。

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