みなさん、こんにちは。わらびです。いつも記事をお読みいただきありがとうございます。
昨日、無駄に見えることが無駄ではなく、実は人間にとって欠かせないものだというお話をしましたが、あれからまた考え、やはりそうだという思いが強く湧いてきました。
昨日の記事→「無駄に見えるものが本当は無駄ではないかもしれない」
例えば、ご飯を食べることについてです。
効率だけを求めれば、点滴で栄養を身体に入れてしまうのでもいいわけです。
けれど、それはイヤだという人が多いと思います。
なぜイヤなのかと言えば、味わえないからです。
生きていくために必要な栄養は点滴で摂取できるのかもしれないけれど、味わえないのはイヤなわけです。
ということは、人間はただ食べるために生きているわけではないということです。
栄養摂取以外の、味わうだとか、楽しむだとか、そういう欲求も食事に求めているということです。
効率だけで考えれば、料理の盛り付けにこだわるのも無駄ということになるでしょう。
綺麗に盛り付けしようが、しまいが、食べるものは同じだからです。
けれど、栄養だけでいえば、盛り付けにこだわっても、こだわらなくても同じですが、食べる人にとっては大きな違いが生まれます。
どんなに高級なコース料理でも、盛り付けをせずに、すべてごちゃ混ぜにしたら、台無しです。
胃袋の中に入ってしまえば一緒ですが、料理は目で見て楽しむ要素もあるのですから、胃袋の中に入る前から、食事は始まっているわけです。
だから、その目で楽しんでもらうために、盛り付けに気を配るのです。
これも効率からは離れた行為です。
けれど、人は綺麗に盛り付けされた食事を見ると、美味しそうと思い、さらに食欲がわき、満足感が高まるのです。
だからやっぱり、効率から離れたものの中に、大事な要素が詰まっているのだと思います。
料理はまだまだ、「普通に食事をとるのは非効率だから、点滴で済ませたい」と思う人は少ないと思いますが、他の面では本人も気付かないうちに点滴で済ませることを選んでしまっている人が増えてきているのではないかと思います。
最近ではAIが発達して、会話も出来るようになりました。
AIは膨大なデータを持っているので、大抵の質問には的確な答えを示します。
スマートフォンさえ持っていれば、いつでも質問することが出来るので、とても効率的です。
けれど、これにより自分の足で情報を得ようとする人も減るのではないかと思います。
今までは、先生に質問しに行っていた学生が、AIに質問するようになったり、家族に尋ねていたことをAIに聞くようになったり。
確かに、AIに質問する方が先生に質問するより効率はいいと思います。
もしかしたら、先生は答えられないかもしれません。けれどAIはきっと答えるでしょう。
けれど、先生に質問をしに行くのは、質問に対する明確な答えが返ってくる以上に大切な何かがあったのです。
思わぬ方向に話が展開したかもしれない、質問に行く途中知らない人と何か出会いがあったかもしれない。
家族に尋ねていれば、家族と喧嘩になったかもしれない。けれど、それがきっかけで何か良い方向に進んでいくかもしれない。もしくは、会話が弾んで、家族の絆がより深まったかもしれない。
実際に人と会話をするのは、AIと会話するより非効率だけれど、AIとの会話では得られない大切な要素や可能性が詰まっているのです。
インターネットで本を選ぶのと、実際に書店に行って本を選ぶのでは全然違います。
インターネットで本を選んで購入する方が時間はかかりません。
けれどインターネットでは、なかなか自分の価値観を変えてくれるような本に出会うのは難しいのです。
本屋さんに行けば、ずらっと本棚に自分の興味の無い分野の本も並んでいます。
その本棚の前に立つと、突然ピンと目にとまる本がある。手に取ってみる。どうしてこの本がピンときたのかは分からない。でも購入する。そして家に帰って読んでみたら、まさに自分にとって必要な情報が書かれていた。
そんな本に出会うというのが、インターネットではほぼ出来ません。
だから効率が全てではないのです。
というより、むしろ、人生を豊かで味わい深いものにするには、恐らく効率から積極的に離れなければならないのだと思います。
今、スピードや要領の良さ、効率の良さが何よりも求められている時代だからこそ、無駄に見えるものを無駄と見なさない、物事の本質を見抜く目を養うことが問われていると思います。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。