統計を信じるな、自分の人生は自分で選択出来る。3パーセントの中に「入る」という考え方。

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医者から余命宣告をされて、その宣告をそのまま鵜呑みにする人がほとんどだと思う。

けれどわたしはこう思う。

「なにを根拠にそう言い切れるの?」と。

それともこうも思う。

「その期間内にわたしに死んで欲しいの?」と。

多分、もし余命宣告した医者にそう聞いたら、「いやこれは今までの統計から判断した結果です」と答えるのだと思う。

そう言われると「統計が理由か、それならそうなんだろう・・・」と思う人がやっぱりほとんどだと思う。

「統計で余命2年と出ている・・・。なら仕方ない・・・」

そういう統計を鵜呑みにする考えに喝を入れてくれるエピソード↓

以下、

『ブレイン・プログラミング』

より引用。

”私は四十七歳のとき、進行性の前立腺がんの診断を受けた。目の前が真っ暗になった。二度目の手術後、私は病室のベッドで横になっていた。たっぷりとモルヒネを投与され、体には、薬を注入したり体液を排出したりするため十三本のチューブが取り付けられていた。そこへ医者が入って来て、静かにこう告げた。「切除片は断端陽性でした」これは医学用語で、「がんは全部取り切れなくて、体内に一部が残ってしまいました」ということを意味する。しばらくすると別の医者がやって来て、次に予定されている治療法を説明してくれた。放射線治療である。私の下半身を電磁波で焼きたいというのだ。どんなことにも「数字のセット」があるはずだと考えた私はこう尋ねた。「それを断ったら、あとどれくらい生きられますか?」「約三年です」と、医者は言った。「二年は、まあ大丈夫だと思いますが、三年目はわかりません」どういう意味かと聞くと、医者はこう答えた。「もし、あなたと同じ年齢で、同じ症状の患者さんが100人くらいいたとすると、だいたい20パーセントの人が二年以内に亡くなり、50パーセントの人が三年以内に亡くなります。残りの人も、そう長くは生きておられないでしょう」「生き残る人はいますか?」私は聞いた。「約3パーセントの人は、八十歳過ぎまで生きて、がん以外の死因で亡くなると思います」医者は穏やかに答えた。「じゃあ、先生、私はその3パーセントのグループに入ることにします!」私は言った。医者はいぶかしげに私を見た。「私はその3パーセントに入って、八十歳過ぎまで生きると言っているんです」と、私は宣言した。「そのためには、どうすればいいですか?」「そういうことではありません」医者は言った。「これは、あなたの年齢であなたと同じ病状の人たちに関する統計の話です。あなたがどのグループに入るのかを選ぶのではありません」何だって?なぜ、そう言える?誰かが3パーセントに入るはずなら、なぜ私がそこに入ってはいけないのだろうか。医者は言った。誰かが3パーセントに入るのは確かだが、そこに入るかどうかを自分で選ぶことはできない。これは単に統計上の数字なのだ、と。私は、間違っているのは先生の方だ、私じゃないと説明した。だって、そうじゃないか。生き残った3パーセントの人は、残りの97パーセントの人がしなかった何かをしているはずだ。それが何かを教えてほしかった。医者は、3パーセントの人たちが何をしているのかを知らなかった。そればかりか、どのグループに入るかは自分で選べるという考え方も、理解できない様子だった。まもなく、どうすれば3パーセントのグループに入れるのかは、どの医者も知らないことがわかった。私の質問を無視して、頭がおかしいんじゃないかという目で、こちらを見る医者ばかりだった。だが、私にとっては単純明快な話だった。誰かが3パーセントに入るはずなら、私がそこに入ると決めたのだ。そのためにはどうすればいいかを知る必要がある。それだけの話だった。~翌年、私は3パーセントの人々を探し出して、その人たちがどんなことをしたのか、なぜ生きのびることができたのかを尋ねてまわった。~今から十六年前のことである。”

このエピソードを読んで、私の心は晴れ晴れとなった。それに目から鱗が落ちたようだった。

”「じゃあ、先生、私はその3パーセントのグループに入ることにします!」私は言った。”こんなことがアリなのか!と驚いた。

そう、アリ!なのだ。

”私は、間違っているのは先生の方だ、私じゃないと説明した。だって、そうじゃないか。生き残った3パーセントの人は、残りの97パーセントの人がしなかった何かをしているはずだ。それが何かを教えてほしかった。”

その通りなのである。

多くの人は「統計上97パーセントの人は3年以内に死ぬ病」と聞いたら、「97パーセントの確率で三年以内に死ぬ」と考えるだろう。

しかし、この統計が示しているもっとも重要なことはそんなことなのではなく「3パーセントの人は生きのびる」という情報である。

そして、なぜそんなことが起きるのかというと、著者の言う通り「3パーセントの人は、残りの97パーセントの人とは何か違うことをしたから」なのである。

だからこそ、「3パーセントのグループに入ることにします!」という著者の宣言は、なんにもおかしな発言ではないのである。

余命宣告の統計上の数字を、コイン投げやロシアンルーレットやサイコロを振ることと同じだと思い込んでいる人が多い。

しかし、余命宣告に用いられる統計上の数字は、コイン投げのような確率論ではないのである。

確立論ではなく、97パーセントの人がとった行動結果と、3パーセントの人がとった行動結果を表しているだけなのだ。

運で97パーセントのグループに入るか、3パーセントのグループに入るかが決まるのではない。

どちらのグループに入るかは、運ではなく、自分で決めることができる。

だから、もし自分や自分の大切な人が余命宣告をされたら、このエピソードを思い出して、自分で「生きのびる」という選択をするのだ。

”「じゃあ、先生、私はその3パーセントのグループに入ることにします!」”

病院なんて行かない方が身のためなんだけれど、世界中の病院で、こんなことを堂々と言える人が増えればいいと思うし、そう願っている。

自分の人生を決めるのは、自分。医者じゃない。

生きのびたいんだったら、医者の言うことなんて信じずに、自分で「生きる」という選択をしよう。

大切な人を守りたかったら、一緒に「生きる」という選択をしよう。医者の余命宣告を大切な人と涙を流しながら聞いていても、大切な人は守れない。

大切な人が海で溺れかけていて、この波の荒れ方だと97パーセントの確率で溺れ死んでしまうと考えて、ただ大切な人が溺れて死んでいく様子を涙を流しながら見守るだろうか?

そうではなく、浮き輪を投げるなり、手をさしのべるなり、自分が海に飛び込むなり、とにかくどうにか助けようとすると思う。

これと余命宣告も同じなのだ。

それなのに、なぜか余命宣告となると、助けようとせずに、ただ溺れ死んでいくのを涙を流しながら見守る人がほとんどになる。

本当に「生きたい」んだったら、「生きてほしい」のなら、97パーセントの死んだ人に注目するのではなく、「なぜか死ななかった」3パーセントの人々に注目しよう。

そうすればなにか方法が必ず見えてくる。

そして「自分も」「自分たちも」3パーセントのグループに入るのだと決めよう。

そうすれば、3パーセントのグループに入れるのだから。

自分のこと、自分の大切な人のことは、自分で守れ。

自分や、自分の大切な人を守ってくれるのは医者じゃない。

自分だ。

ほんとうに、自分を、自分の大切な人を守りたいのなら、他人に命の舵を取らせるな。

「生きたい」なら、「生きてほしい」なら、統計や他人の言うことなんて信じずに、自分で「生きる」「生きのびさせる」と決めるのだ。


自動的に夢がかなっていくブレイン・プログラミング
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