「すみません」と言い過ぎ?
最近、つくづく思うことがあります。
それは、どんな場面であろうと「すみません」と言う人が多いことです。
しかも、この傾向は特に日本人に多い気がします。
エレベーターに乗り込む時も、開くボタンを押して待ってもらっていたら「すみません」と言う人の多いこと。
私はただ開くボタンを押していただけなのに相手に「すみません」と言わせてしまって逆に気まずい思いがしてしまいます。
1分2分待ってもらったわけではないから、私は別に「すみません」と言う必要は無いと思います。
もし、何か言うとしても「すみません」ではなく、この場合は「ありがとうございます」の方が良いのではないでしょうか。
それに、日本人の「すみません」は全てにおいて謝っているわけではないのですが、私はどうしても「すみません」というと「申し訳ないことをしてしまった」と感じてしまうのです。
実際は、そんなことしてない場合でも。
でもそれっておかしいなあ、と思うので私は極力「すみません」は使わないようにしています。
何か相手に迷惑をかけた時には「ありがとうございます」と言った方が相応しい場合もあれば、「ごめんなさい」と言った方が相応しい場合もあります。
なのに「すみません」はどちらの場合でも使うことができる。
便利な言葉の一方、とても曖昧な言葉でもあるのです。
だから言われる側も、気まずくなったり、怒りが収まらなかったりするわけです。
その反面、日本に済んでいる外国の方や観光に来ている外国の方は日本人より使い分けが上手くできています。
何かやってもらったら「アリガトウ」と言っている場面をよく見ます。
タイの人なんかは「アリガトウ」と言うだけではなく手も合わせていて、それを見る度に「すみません」と言うより断然いいよね~、と感心しています。
「すみません」とはどんな意味なのか?
「すみません」は、動詞「済む」に打ち消しの助動詞「ぬ」がついた「すまぬ」の丁寧語が元の形になっている言葉です。
つまり「すみません」には「それでは私の気持ちが済みません」というニュアンスが含まれているのです。
だから、相手を怒らせてしまったときにも「(あなたを怒らせてしまい、私の気持ちが)済みません」。
相手に何かをしてもらったときも「(お手数をおかけしてしまって、このままでは私の気持ちが)済みません」と、どちらの場面でも使えるわけです。
「すみません」をやめれば日常の有り難さにも気づきやすい
「すみません」の語源を知れば分かるように「すみません」自体はとても曖昧な言葉です。
そこに感謝の意味は含まれていないと言っていいでしょう。
「すみません」という言葉が頻繁に出てくる背景には「他人に迷惑をかけてしまった」という思いがあるのではないでしょうか。
つまり、「何かをしてもらった」という相手への感謝の気持ちよりも、「迷惑をかけてしまった自分」に焦点がいっているのです。
そういう意味では、何時でも「すみません」で済ませてしまうのは、相手のことよりも自分のことばかりを気にかけている自己中心的な心の表れとも言えます。
一日中これでは、「あぁ今日もいろんな人に迷惑をかけたなぁ」という気持ちで終わります。
でも「すみません」を「ありがとう」に変えれば、たくさんの人に感謝できるだけでなく、世の中の有り難さに気づくことができます。
「今日もこんなに良い人達に出会うことができた」と幸せな気持ちで一日を終えられるのです。
「迷惑をかけたなぁ」で終わる人と「世の中には有り難い人たちがいるなぁ」で終わる人、どちらが幸せに生きていけるでしょうか?
「ありがとう」は漢字でかくと「有り難う」です。
語原は「有り 難い」からきています。
つまり、自分のために何かをやってくれる人がいることは「有り難い」ことなんです。
エレベーターで開くボタンを押して待ってくれる人がいるのも、落とした物を拾ってくれる人がいるのも「有り難い」ことです。
決して「当たり前」なことではありません。
だから私は出来るだけ「すみません」で済ませるのではなく「ありがとう」と言いたいと思っています。
勿論本当に申し訳ないことをしてしまった場合は「ごめんなさい」です。
「すみません」を「ありがとう」に変えよう
日常は自分が思っているより有難い出来事に溢れています。
せっかく「ありがとう」と伝えられる機会にたくさん恵まれているのに、「すみません」と言ってしまうのはなんだか勿体無いですし、寂しいです。
「相手に手間をかけさせてしまった」と感じ「すみません」と言うより、「有難いことをしてもらった」と思い「ありがとうございます」と言ってみませんか?
実際に言ってみると人の優しさに触れた感じがして、嬉しいものですよ。
それでは、今回はこのへんで~。