わたしは、ここわたしの要塞の門の下に、わたしの指針である旗印である言葉を刻み込む。万が一、わたしたちが戦闘で死んだとしても、それ自体は決して滅びることのない言葉を刻み込む。この地上で死滅することなどありえない言葉を刻み込む。なぜならば、その言葉は、この地上の中心であり、意味であり、栄光であるのだから。 聖なる言葉。 自我(エゴ)
アイン・ランド『アンセム』(1946年)より
・自我は人間らしさを与えてくれる灯火(ともしび)
自我とかエゴという言葉は、なんとなく悪い意味として捉えられがちだ。
「自我が強い人」と言えば「自分のことしか考えていない人」と思われる。
だから、自我(エゴ)はできるだけない方がいいと思っている人もいる。
けれど、それは違う。
自我がない人間なんていないし、そんな人がもしいたら、その人はもはや人間とは言えない。
そもそも「自我」という言葉自体には「自分本位」という意味はない。
”【自我】認識・感情・意志・行為の主体としての私を外界の対象や他人と区別していう語。”(広辞苑より)
自分と他人を区別するからこそ、個性が発揮されるわけであり、十人十色の考えが生み出されるのである。
もし、人間から自我を完全に取り去ってしまったら、それはもはやロボットと同じである。
ロボットは自分を他のロボットと区別したりしない。
だからそこに不確実性は生まれない。
それに、自我が「自分のことしか考えていない」と捉えるのなら、自我はない方がいいと言って、そうなるように行動する本人こそ「自分のことしか考えていない」ことにもなる。
だから、ある意味自我とは努力してなくせるものでもないのである。
もし、自我がなくなることがあるとしたら、それは意図せずしてそうなるのだ。
けれど、繰り返しになるが、自我は、それ自体「悪」でも、排除すべきものでもなく、むしろ、人間らしさを与える灯火であるから、そんな努力は不要なのである。
・人間のロボット化を望む者たち
問題なのは、自我を人間から排除しようとする者が現れたときである。
自我は人間らしさに欠かせない要素だが、人間を操ろうとする者にとっては非常に扱いづらい嫌な要素である。
「わたしはこう思う」とか「わたしはこれをやりたくない」とか言って欲しくないのだ。
ただ、機械のように何も言わず、何も考えず、命令通りに動いて欲しい。
これが、人間を支配・管理する側の考えである。
だからこそ、そういう立場に立つ者は、大衆から自我(エゴ)をなくさせようと躍起になるのだ。
・学校は自我を失くさせる場所
学校はそのための訓練施設でもある。
学校では自分勝手な行動は悪とされ、そういった行動を起こすと罰される。
出る杭は打たれ、みんなと違う意見を持っていたら白い目で見られる。
同調圧力に満ちていて、みんなでみんなを監視し合っている。
そうした環境に、多くの人は10年近く、またはそれ以上、身を置くから、少しずつ、自分の個性を抑制して適応していく。
こうして、社会人になった頃には、自我はとても薄れている。
もはや自分が何を求めているのかすら気づけない人間になっている。
・自我を大切にして自分を生きる
だから自我を失うとは、とても恐ろしいことなのである。
自我を無くすとは、「自分をなくす」ということである。
「自分を生きる」ことを止めることである。
それは生きる屍でもある。
人間には生まれた時に、一人ひとり唯一無二の個性が与えられて、その個性の数は人の数だけ無限にある。
その与えられた個性を精一杯生ききること、これが重要なことなのだ。
自我を大切に。
自我こそが、自分なのだ。
自我を大切にすることは、自分を大切にし、自分を生きることである。
アンセム