どんなに善人でも嫌われることはある

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みなさんこんにちは、わらびです。いつも記事をお読みいただきありがとうございます。

前回の記事で、「他人を尊重するのは、人間関係を円滑にするためではない」とお話しました。その中で、どんなに善人でも嫌われることもあるということにも触れました。

今回は、この「善人でも嫌われる」ことについて、どう考えたらよいのか、再び「善人の罪」に気付いた黒住宗忠の生き様から学んでいきたいと思います。

善人の罪に気付き、日光を浴び、陰気を払い陽気に生きることを決心した宗忠の病はみるみるうちに治り、それだけでなく、病人を撫でるだけで病を治してしまうというマジナイまで使えるようになりました。

どんな難病もただ撫でるだけで治してしまう宗忠のもとには、多くの人が訪れました。

宗忠は人々の要望に無報酬で応えていたのですが、なんと祈祷や呪術で生計を立てていた祈祷師や修験者たちが、自らの生活を脅かされると思い、宗忠にさまざまな迫害や中傷をするようになったのです。

無報酬でただ人々の要望に応えていただけの宗忠にとっては、これは明らかにとばっちりですが、宗忠はそうは考えなかったのです。

宗忠は自分がこのような目に遭うのは、自分の不徳に原因があると次のように考え、これらの迫害や中傷を自己反省の材料にしました。

みな人の悪しきはおのが姿なり
よくかへり見よ清き心を

それから宗忠は「五社参り」と「一千日参籠」を自分に課し、修行に励みました。すると迫害や中傷はおさまったのでした、めでたしめでたし・・・・・・。

このエピソードすごいと思いませんか。

人々の要望に無報酬で応えていただけだったのに、中傷を受けて、実際は、なかなか「こうなるのは自分のせい」とは思えないですよね。

「私はなにも悪いことはしていない!」と腹を立てることが自然な反応な気がしますが、宗忠は腹を立てるどころか、修行を始めた・・・。

ほんとうに、なかなか出来ることではないと思います。

けれど、このエピソードを知って私は少し気が楽になりました。

宗忠のような本当の善人も嫌われることがあった、だから対人関係の悩みというのは、ある意味尽きることがなくて当たり前なんだと思えるようになったからです。

そしてさらに勇気づけられたのが、理不尽な状況について宗忠が腹を立てずに、ただ自分に目を向けて、問題を解決してしまったということ。

どんなに、「自分は悪くない」と思えることでも、自分を磨くことで、解決出来ると知れたことに勇気づけられました。

つまり、どんな出来事も、その問題を解決させる切り札は自分が持っているんです。

これが、「切り札は他人が持っている」だったら苦しいですが、自分が持っているのだと思うと気は楽です。

宗忠のように実際に行動することは、なかなか難しいかもしれませんが、理不尽な状況に陥った時、このエピソードを思い出せば、立ち止まり、少しは心を落ち着けることが出来るのではないかと思いました。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

↓参考文献↓


太陽の神人黒住宗忠
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